瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅間山の昭和22年噴火(26)

岸田今日子「夏休みの日記」(3)
 昨日の続き。

 八月十四日 晴のち小雨


 本文は11月2日付(20)に引用して置きました。以下は、これまでに確認した新聞記事から察せられる経過を添えて置きましょう。
 噴火から遺体収容までの経過を報じた新聞記事は、まず「朝日新聞」東京本社版を10月4日付(05)までの3日分、大阪本社版は10月26日付(18)までの3日分、「毎日新聞」は10月20日付(12)までの5日分、そして「讀賣新聞」8月16日付記事は10月21日付(13)に、それぞれ紹介して置きました。
朝  世田谷区の中沢兄弟、星野温泉に荷物を預けて登山(読売8.16)
午前 登山者の多くが下山(朝日8.15)
直前 小諸署員が下山(朝日/大阪朝日8.16)
12時18分 噴火、連続的爆音14分間、35分を経て平常に復す(朝日8.15)
12時20分 沓掛より撮影(朝日/大阪朝日8.16)
13時頃 全身火傷の浅沼勝次郎が峰の茶屋に下山(朝日8.16)
14時頃 休止状態に戻る(毎日8.15)
15時頃 湯の平での森林火災、小諸より遠望(朝日8.15)
夜  救援隊が小諸口より登山(読売8.16)
夜  鳴動やまず(朝日/大阪朝日8.16)
夜  浅沼氏、収容先の星野医院にて死亡(朝日8.16)

 八月十五日 晴
 二人がお料理、一人が後片付、他の事は三人で一度にして、なるべく時間を浮かせる/ことにする。昨日の雨はほんのパラ/\だったので、かへって木の葉の灰を固まらせる/だけになってしまひ、外が白っぽくて汚らしいのが残念だ。


 前半(169頁9行め〜171頁1行め)を引いて見ました。
 170頁は「噴煙を上げる浅間山。」の写真ですが、8月14日のものではないようです。
朝  救援隊、火山灰の堆積のため遭難者を発見できずに下山(読売8.16)
朝  小諸口から捜査登山した岡田公徳(埴科郡森町)ら、3人の死体を発見(朝日8.16)
朝  岡田公徳(長野県埴科郡森村青年団)ら一行五名が3〜4人の死体を発見(読売8.16)
−  岡田公徳(長野県埴科郡森村中川原青年団員)ほか4名と市川一郎(群馬県高崎市)ほか5名、4人の死体を発見(毎日8.16)
夕刻 岡田氏ら峰の茶屋に下山(読売8.16)
−  岡田氏ら・市川氏ら、軽井沢駅へ下山(毎日8.16)

 八月十六日 晴のち雨


朝  軽井沢署員・警防団員30余名、峰の茶屋に待機(大阪朝日8.17) 
−  望月光雄(軽井沢町沓掛)ほか9名が新たに4遺体を発見(大阪朝日8.17) 
−  70名(毎日8.17)もしくは60余名(毎日8.18)の捜索隊が登山*1

 八月十七日 晴のち雨
 十時の電車で桐山さん達が帰るので駅まで送って行った。


 172頁1〜2行め、以下略。14日に来て滞在していた2人が帰る記述を抜いて置きました。

 八月十八日 晴のち雨
 あたりの灰も大方落ちて、やっと緑がよみがえって来た。


 172頁9〜10め、以下略。この日に大掛かりな収容作業が行われています。
午前5時 捜索隊64名、峰の茶屋を出発(朝日8.19)
午前6時 決死捜索隊70余名、遭難現場に到着(毎日8.19)
午前9時半 捜索隊、7遺体を収容して峰の茶屋へ下山(朝日8.19)
 以後帰京するまでは、日付と天候のみ挙げて置きましょう。
 八月十九日 晴
 八月二十日 晴
 八月二十一日 晴のち雨
 八月二十二日 晴
 八月二十三日 晴
 八月二十四日 曇のち雨
 八月二十五日 晴
 八月二十六日 曇り
 八月二十七日 曇のち雨
 八月二十八日 晴のち雨
 八月二十九日 晴

*1:10月25日付(17)に「この16日の捜索については、東京の各紙は記事にしていませんでした。」と書いたのは誤りだったので削除した。