瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『鬼畜』(10)

 5月16日付(08)に誤解があったのを修正した。

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 昨日からの、桂千穂+編集部「松本清張映像作品 サスペンスと感動の秘密メディアックスMOOK448)の映画「鬼畜」に関するインタビューについての続き。
 063〜065頁「監督・松原信吾インタビュー」は「「親子の愛情が実はあるんだと/ちゃんと出ている好きな映画です」」との発言が題に採用されているが、これは1節めの前半の要約である。続くリード文は「幼い子供が3人出演する「鬼畜」の撮影現場は大変だった。/しかしその中で本来本作がもっていたテーマが浮かび上がってきた。」となっている。
 それではまづ、題に要約されている1節め「子供たちに芝居をつける/のは助監督の仕事だった」の前半、063頁上段3行め〜中段8行め、を見て置こう。

 僕は野村芳太郎*1監督の松本清/張作品では、「鬼畜」が最高傑/作だと思います。「張込み」と/か名作は色々ありますが、僕に/はこの映画が一番です。なんと/いっても話がきついですよね。/それなのに、親子の愛情が実は/あるんだ、ということが非常に/クリアーに出ている。
 この映画は、野村芳樹*2ちゃん/がプロデューサーでしたけど、/「やっぱり親父さんは、あんた/のことを愛しているんだ」とい/うことを、酒を飲みながら話し/たことがありました。そういう/話にきちっとなっている。いい/映画ですね。


 ここを読んで、色々と考えてしまう。――例えば、夏目漱石こゝろ』について、Kが失恋を苦に自殺して、先生は親友Kを裏切ったことの罪悪感から自殺したのだ、と云う説がかつて文庫本の解説に書かれていたこともあった訳だから、描かれていることを誤りなく読み取ることは実は容易ではないのだ、と思うのである。それから、身近なところでも4月1日付「万城目学『鹿男あをによし』(1)」に書いたようなことがあった。
 しかし、だからと云ってこの映画の描き方で、松原氏の読み方まで許容されるとは、思えないのだけれども。
 そして、3節め「撮影しながらテーマがはっきりしてきた作品」に、この点についてより詳しい言及がある。まづ1段落めを見て置こう。065頁上段15行め〜中段3行め、

 ラスト、長男が親をかばって、/「父ちゃんなんかじゃない」っ/て言うシーンがあるじゃないで/すか。あれも僕の記憶だと確か/台本では違いました。現場で付/け加えたんじゃなかったかな。/そういう意味では、撮りながら/テーマがはっきりしてきた、と/いう感じの映画でした。


 この発言は重要だ。もしこの通りだとすれば、4月29日付(04)に紹介した「西村雄一郎のブログ」2014-08-01「ドキュメント「張込み」㉙ 井手雅人の哀しい物語」及び西村雄一郎『清張映画にかけた男たち』215〜217頁に見える、脚本家井手雅人が本作のシナリオに込めた思い、と云うのはフィクションと云うことになってしまう。……脚本家が関与していないところで出来た台詞と云うことになるんだから。
 もし、西村氏の指摘する通りで、井手氏が思いを込めて書いた台詞であるのならば、この松原氏の発言は、記憶を自分の誤った作品理解に基づいて捻じ曲げてしまっていることになる。――やはり『井手雅人 人とシナリオ』及び「鬼畜」のシナリオの確認が必要になって来る。
 しかし、その作業をするにはもう少々時間がかかりそうなので、先に松原氏の発言内容の確認を済ませてしまおう。(以下続稿)

*1:ルビ「のむらよしたろう」。

*2:ルビ「よしき」。