瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『鬼畜』(09)

 5月16日付(08)の続き。
 それでは桂千穂+編集部「松本清張映像作品 サスペンスと感動の秘密メディアックスMOOK448)のインタビューから、映画『鬼畜』の解釈に関する発言を見て置こう。
 056〜059頁「撮影監督・川又繡インタビュー」は「「3人の子供が重要な役、/子供の撮影には工夫しました」」との発言が題に採用されている(本文にはない)。続くリード文は「子殺しを扱い、俳優が出演をためらうような映画。/子役の撮影にもひと際苦労した。」となっている。
 2節め「人間の弱さが/出せる作品にしたい」の1段落め、057頁上段18行め〜中段5行め、

 ひと昔前なら絶対に通らない/企画だったんですが、脚本の井/手雅人さんはさすがで、もとも/とは松本清張さんの初期の短編/だったのを、ちゃんと読んで自/分でシナリオにしていたんです/ね。それが大変に面白く、映画/にしようということになったん/です。

とシナリオに触れ、そして057頁下段16行め〜058頁上段1行め、

 野村監督は、「子殺しを扱っ/た作品だけに、重く陰惨な映画/になりがちだが、そんなふうに/せず、人間の弱さを出せる作品/にしたい」と言っていました。
 緒形さんのおかげでそれは非/常にうまくいったと考えていま/す。

と監督の意図を説明する。
 そして最後の5節め「子供の最後のセリフは/いったいどちらの意味?」、これは全文(059頁下段6〜21行め)を抜いて置こう。

 警察に連れられた父親と子供/が対面するラストシーン。警察/が、この人が父親かどうかを子/供に問いますが、子供は「知ら/ない、父ちゃんじゃない」と言/い放ちます。このセリフが、親/をかばって言っているのか、そ/れともこんなに冷たいのは親/じゃないと言っているのかは当/時、議論になりました。
 当時ナンバーワン評論家に、/私が野村監督が銀座*1でばったり/会った時にも、「あのシーンは/どういう意味なのか?」と質問/されて、観客の受け取り方次第/だ、と監督は答えていましたね。


 現在、庇っていると取っている人が多いようだが、それは当時も同じで予告篇やポスター・チラシ等で2013年3月14日付(01)のような宣伝が行われていたのであれば、当然そのように取る人が多いはずなのだが、それでも公開「当時議論にな」っていたのである。当時の新聞や雑誌記事に当たってみる必要もあるだろう。
 映画本編を素直に見れば2013年3月15日付(02)に指摘したように、庇っているとは取れない。しかし制作サイドはとにかく「親子の絆」を強調しているから、ナンバーワン評論家*2のように宣伝文句に疑問を抱いてもそれをそのまま表明出来ずに、監督に質すようなことにもなるのである。――しかし監督のこの返答は、映画と同じくらい、上手である。(以下続稿)

*1:ルビ「ぎんざ」。

*2:淀川長治ということになるのだろうか、当時ナンバーワン評論家というと。