瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『砂の器』(11)

 昨日、西村雄一郎『清張映画にかけた男たち 『張込み』から『砂の器』へには、177〜313頁「第二部 『砂の器』、そして『黒地の絵』」210~268頁「第二章 それぞれの旅立ち」227~258頁「橋本忍の場合」の節、7項め、「父をいかにして殺すか」に、橋本氏が本作の映画化に奔走する切っ掛けとして父の死が位置付けられていることに触れましたが、西村氏も見ているはずの橋本氏のエッセイ「一発マクリ」では全く違った説明になっているのです。
 そこでシナリオ作家協会 編『年鑑代表シナリオ集 一九六八年版』に併載されている「一発マクリ」から、西村氏が引用していない箇所を抜いて、検討して見ようと思うのです。
 まづ冒頭、406頁上段13行め~中段2行め、

 このシナリオは六、七年前に、松竹の野村/芳太郎さんの監督予定で企画され、山田洋次/君と一緒に書き上げたものです。
 それが映画にならなかった事情は、ロケー/ションが多くて金がかかりすぎるとか、話が/暗くて興行収入に自信がないとか、映画界に/あり勝ちな日常茶飯事な理由であって、特筆/するような裏話はなにもありません。
 その時期には早く映画にしたい気持なぞも/あり、一、二の人に読んでもらったりもしま/したが、その後は私の個人的なある事情で、/書棚の奥へしまい込んでしまいました。
 理由は私の父の死んだ時に、このシナリオ【上】が一冊枕許においてあり、死骸と一緒に焼い/てしまったからです。‥‥


 昭和44年(1969)から7年前とすると昭和37年(1962)ですが、これは後述するようにもっと早いようです。
 注意されるのは、西村氏が映画化推進の原動力と位置付けた父の死を、ここでは映画化を躊躇する理由として説明していることです。
 この続き(406頁中段2~19行め)が、前回触れた西村氏が引用している箇所(243頁17行め~244頁8行め)です。

‥‥私の父は風変りな男で/おそらく生涯を通じて第三者に対し、お世辞/というものは一度も口にしたことのない、/頑固とか一徹を通り越した、凄まじいまでの/ものでした。私は自分の仕事について父との/対話は一生避けつづけました。
 誰もがそこまでは私にいわない、作家とし/ては致命的な、心が血を噴くような事にまで/ふれてくると思ったからです。(大げさな見/せかけばかりをやりやがって……本当の中味/にどこまで真実があるんだ)他のシナリオに/は一切眼もくれず、手垢によごれ、何度とな/く読み返しているこのシナリオには、さらに/それを強く責める意味があるのか、それとも/大げさな見せかけの中に、ほんのチョッピリ/かも知れないが、これには真実らしいものが/あるといった意味なのか、現在の私にもそれ/はよくわかりません。


 西村氏はこの引用に続いて、244頁9行め~245頁3行め、

 橋本は、『砂の器』の父子の旅を書く時に、父と自分との関係を思い浮かべていたのではな/いだろうか。だからこそ、このシナリオを読んだ父から、「大げさな見せかけばかりをやりや/がって」と批判されることを恐れたのである。ところが、父の意見は、予想とは全く違ってい/た。
 橋本は、父の死の寸前、故郷の鶴居にいる父を見舞った。その時、枕元には、『切腹』と/『砂の器』のシナリオが置かれていた。病床の父は、照れくさそうに笑いながら、こう言った/という。
「お前が書いた脚本の中で、読めるのは、『切腹』と『砂の器』くらいのものや。脚本の出来/からいったら、『切腹』の方が上やけど、好き嫌いからいったら、ワシゃあ、『砂の器』の方が/好きや。『切腹』は映画になったのに、『砂の器』は映画にならん。これを映画にすれば、当た/るがのぉ」【244】
 興行師までやった父の勘であった。一九六四年一月、東京オリンピックを控えた寸前に、父/は死んだ。
 その当時のことを、橋本友子さんに聞いてみた。

と述べています。「一発マクリ」に拠れば「父との対話は一生避けつづけ」ていたと云うのですから、最後にこのような話があったとは思えないのです。かつ「他のシナリオには一切眼もくれず」とあったのに西村氏の記述では『切腹』のシナリオもあったことになっています。そして「手垢によごれ、何度となく読み返している」らしき『砂の器』の「シナリオが一冊枕許においてあ」った意味も、「一発マクリ」では父とは全く「対話」していなかったのですから、それがどういう「意味なのか、現在の私にもそれはよくわかりません」と橋本氏本人が説明しているのに、西村氏は同じ箇所を引きながら、どこから聞き出したのか、出典を示さずに全く違う内容を並べて記しているのです。――但し西村氏のように書かれると、父が最後になって自分を認めてくれた、それで245頁15~18行め、

 父が大切にしていたシナリオは、父の棺の中に入れ、亡骸と一緒に焼いた。
 東京に帰ってくる汽車の中で、父が残した言葉は、遺言のように橋本の胸に響いてくる。城/戸四郎の反対で、お蔵入りとなったシナリオ、長らく忘れかけていたシナリオが、親父の言葉/によって甦ってきたのである。【245】

と云う流れになる訳で、その続きが前回引用した橋本プロダクション設立に関する記述になるのです。
 ところで、245頁4~14行めに橋本友子のインタビューが引用されているのですが、この人のことは、241頁9行めに、橋本氏の兵庫県神崎郡市川町「鶴居の生家の土間で聞いた、忍の義理の妹、橋本友子さんとの会話である。」と見えていました。
 この前後には橋本氏本人へのインタビューも引用されていて、この父の死に関する話もインタビューで聞き取ったことらしくは思えるのですけれども、しかし、本人の記述を見ると、これは本当なのだろうか、と思えるのです。或いは、西村氏が聞いた話が本当で「一発マクリ」の方が、本作に焦点を据えて少々デフォルメされているのかも知れませんけれども。(以下続稿)