昨日の続きで、森まゆみ『風々院風々風々居士』について。
さて、掲載誌を見た山田氏から「も少し手を入れ」よ、との葉書をもらった森氏だが、坪内祐三(1958.5.8生)に、「あとがき/風のように逝かれた」198頁1〜2行め「この逐語録というのがい/い、整理されたものより後世の研究者には役に立つ、」と評され、2〜3行め「考えた末、本書に再録するに/当り、最小限、わかりにくい所を補い、多すぎる句点をとるに止めた。」と、結局「手を入れ」ないことにしている。
しかしやはり前回指摘したような欠点は覆いがたい。そしてこの「逐語録」によって、関川氏が『戦中派天才老人・山田風太郎』にて「インタビューのかたちをとっ」た「物語」を選択した理由が、良く理解されるのである、――と云って良いであろう。会話は、当人同士は何となく理解出来てしまうが、やはり言ったことを文字にするだけでは不足なのである。「後世の研究者」にしても「も少し」持ち出された話題について突っ込んでもらわないと、使いづらいのではなかろうか。かつ、本人の回想であっても、2012年4月11日付「現代詩文庫47『木原孝一詩集』(1)」・2014年1月7日付「赤いマント(77)」・2015年11月18日付「山本禾太郎「第四の椅子」(2)」等、当ブログでも繰り返し指摘して来たように、正確とは限らない。当時の資料(一次資料)と突き合わせて記憶違いがないか、確認した上でないと使えない。山田氏の研究者であればそこまでするだろうが、専門が違えば、研究者と名乗っていても確認もせずに案外素直に引用して(根拠を示したことで頬被りして)済ませてしまうようなケースが少なくないのである。
それから「研究者」を意識するのであれば日付は示して欲しいと思う。日付が分ることで、何を知っていて、何が手許にあったのか、確定させられる、とは云わないまでも、ほぼ誤りなくイメージ出来るからだ。――参加者がその日までに明らかにされていたことを全て知っているわけでもあるまいし、大体の時期が分かればそれで良いのではないか、と思う人がいるかも知れないが、物事を考える際に明確に出来る事柄が多い方が、無用な詮索に割く精力を減らすことが出来る。前回引用したインタビューで云えば、NHKスペシャル放映前、さらには未知谷版『戦中派虫けら日記』刊行前と云うことが、存外重要なのである。
この「逐語録」に附された、71〜73頁、森まゆみ「風太郎邸探訪記」に、71頁4行め「○月○日京王線の聖蹟桜ヶ丘に一時ね」とあるのだが、この「○月○日」を明らかにして欲しいのである*1。
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さて、話を『戦中派虫けら日記』に戻して、――細かく勘定した訳ではないが「誤植」の「五十」くらいは未知谷版にもあったように思う。尤も、スキャナで読み取る際に機械が誤って認識し、それを校正の際に見落としたと思しき、新たに生じたらしい誤りもあったように記憶する。
森氏たちのインタビューにて初刊本『滅失への青春』の「誤植がものすごい多い」ので「それを訂正するためにでもね、出してもらおうか」と山田氏は語っているのだが、そこまで「訂正」されているようには読めなかった。尤も『風々院風々風々居士』は今回初めて通読したので、山田氏がそういうつもりだったと云うことを私は知らずにいたので、ちくま文庫版『戦中派虫けら日記』が出たときに、今度こそ訂正されているのではないかと思って何箇所か点検して見たところ、未知谷版のままだったので拍子抜けした記憶がある。――記憶は当てにならぬと云いつつ記憶で物を言っているが、その後転居などもあって当時のメモが俄に出て来ないので、敢えて記憶に頼って書いた次第である。
それはともかく「誤植」が「百」あるかどうかは、流石に原稿と付き合わせて確認しないことには分からない。未知谷版にてどの程度「訂正」が行われているかは、大和書房版と校合すれば明確に把握出来るのだけれども、今更活字本同士を突き合わせるまでもない、と思うのである。――日記原本が残っているのであれば、刊本同士を付き合わせるよりも原本と校合した方が宜しいに決まっているのだから。(以下続稿)
*1:文庫版で改めたところがあるであろうか。まだ文庫版は未見なので、以上メモしたところを中心に近々確認してみるつもりである。