瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』(6)

 昨日触れた「鳩よ 」と云う雑誌には、大学時代の友人(と云うほど親しくもなかったが)にまつわる、一寸とした思い出があるのだけれども、これは当人が書くべきだと思うから書かないで置く。――私と「鳩よ 」には、残念ながら何の関係もありません。

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 さて、ほぼ同じ頃に別に山田氏を訪問した人たちがいて、雑誌「彷書月刊」に、こちらはインタビューをそのまま掲載している。
森まゆみ『風々院風々風々居士―山田風太郎に聞く』 二〇〇二年十一月二十五日第一刷発行・定価1,400円・筑摩書房・199頁

ちくま文庫
 文庫版は未見。
・二〇〇五年六月十日第一刷発行・定価680円・234頁*1
 単行本199頁の裏、奥付の前の頁に、

<初出誌>
 
山田風太郎見参逐語録
  ――「彷書月刊」一九九四年十、十一月号(弘隆社)
ただぼうぼうと「風」の音
  ――「東京人」一九九六年十二月号(東京都歴史文化財団
明治小説の舞台裏―自著を語る
  ――『山田風太郎明治小説全集』一〜七巻、自著を語る(一九九七年五月〜十一月刊、/筑摩書房

とある*2
 5頁「山田風太郎見参逐語録」の扉(頁付なし)、「逐語録」に振仮名「インタビユー」がある。下部に山田邸の庭から撮した写真。裏は白紙。
 7頁、まづ7行分空けて「山田風太郎の発言から始まっている。聞き手は「――」で示される森まゆみ(1954.7.10生)の他に、10頁6行めから登場する「高橋」すなわち「(古書店月の輪書林」店主、高橋徹氏)」、13頁16行めから登場する「田村」すなわち16行め〜14頁1行め「(古書店「なないろ文/庫ふしぎ堂」店主、「彷書月刊」編集人の田村治芳氏)」が来ている。
 山田邸訪問の時期は明示されていないが、10頁7〜8行めに「山田 八月十二日にね、NHKでやるんですよ、日本で一番長い一年だかいう昭和二十年、/ ぼくのだけじゃない、五十人集めたとかいうんですね、終戦の年の日記。‥‥」とあって、これは前回引いた関川氏との会話にも出て来たNHKスペシャル「日本のいちばん長い年」であるが、この山田氏の話し振りと、続く聞き手たちの反応から見て、放映前だったと判断される。
 それはともかく、本書のことや、未知谷の名前は出てこないが未知谷と思われる「出版社」が山田氏の本の続刊を希望していたことが37頁1行め〜38頁9行め、「宝石」の懸賞小説に当選した頃を回想したのに続けて語られている。

高橋 その頃も日記はつけられていたんですか。
山田 それね、この前の、その前の日記がある。それはまぁ、出したいちゅうて出て。又新/ しく、やなんだけどね。その前出した『滅失への青春』、それが誤植がものすごい多いん/ ですよ。それを訂正するためにでもね、出してもらおうかちゅうことになったんだけども/ ねぇ、それが昨日手紙よこしたんだけども、昭和二十一年以降の日記が。
高橋 戦後のね、「山田風太郎の世界」(新評社)にも載ってたけど、すごくおもしろかった。
山田 いやいや出してないです。
高橋 ハイ、公刊はされてないですよね、少し載ってますよね(「わが推理小説元年―昭和二十/ 二年の日記から」)
山田 ぼくは、この二冊を出すのでも、非常にためらったんですよ、なにも、参謀本部に勤/ めてて、その政治の中枢にあずかってたなんていうんじゃない。なんでもない学生の日記/ でしょう。そんなもん出しても意味がないちゅう。ただね、戦争中は、新聞紙だって半ペ/ ラ一枚なんですよ、大本営発表とか出てるだけで、なにも庶民の生活なんか、なんも出て/ ないわけ。それなら、少しは、庶民の生活みたいなものが出てる筈だから、その意味でね/ ぇ、出すのも、意味はあるんじゃねぇか、つうことで出してもらったわけなんだけど。戦/ 後はもう、新聞も、何書いてもよくなったんだし、出す意味がないつってね、そのことわ【37】 りの、ハガキ書いて、そこに置いてあるわ(笑)
――戦後もずうっと日記をお書きになってらっしゃるんですか。
山田 ええ、メモていどの。
高橋 今日、森まゆみ来たるって書かれて(笑)
山田 その程度ですよ。それからねぇ、そのおんなし出版社だけどもねぇ、わーっと調べた/ ら、本に入ってない小説がたくさんあるっちゅうんですよ。初期のもの。その頃はもう小/ 説の注文が入ったら、狼狽しちゃってねぇ。自分はなんにもないわけです。書く内容も、/ 書き方も。でも、頼まれたから、書いて、まあ載せてもらったちゅう、箸にも棒にもかか/ らないしろものなんですよ、それも。絶対ことわるっちゅうて、返事をしたんですがね。


 確かに関川氏の云う通りで、言わんとするところは何となくは分るが、細かく検討するに意味の取りづらい箇所が少なくない。話題も、ここに抜いた限りではまとまっているように見えるが、実は思い付きでかなりあっちこっちに飛んでいる。しかしそれも当時の山田氏の味だとすれば、そのまま「逐語録」として再現するのも、一つの見識であろう。しかし、やはり不満は残る。197〜199頁「あとがき/風のように逝かれた」によると197頁12行め〜198頁1行め、山田氏に「掲載誌を送ったところ、「座談会はも少し手を入れるものです」といったお葉書を/頂いた」と云うのだが、何を指しているのか不明瞭だったり、急に話題が転換されて結局最後まで説明されずに宙ぶらりんに終わってしまったところが少なくないのである。
 では、どうすれば良かったのかと云うと、「逐語録」はそのまま、それに詳細な注を加えるべきだと思うのである。後でインタビュアーが疑問点を洗い出して、本人に確認を求め、その上で疑問点を潰してしまうような整理は、読み易くはなるし筋も通る。しかしながら、当日当人が言わなかったことを、言ったことにしてしまうと、やはりどうしてもインタビュー全体を通しての整合性が崩れるのである。どんなに巧妙に調整しても、妙なところが出て来る。だから「逐語録」は出来るだけ忠実に再現し、別箇、疑問や補足を注釈として加えるべきだった、と思うのである。(以下続稿)

*1:10月9日追加。

*2:9月19日追記】「風」を鍵括弧で括るのを忘れていたのを補った。