昨日見た松山ひろし「現代奇談」の赤マント関係の記述、「現代妖怪夜行」が先行して、後に「奇談メモ」の「2003/2/18 赤マント」条が書かれたようです。ともに小沢信男「わたしの赤マント」に由来する記述が見えますが、「現代妖怪夜行」はもちろんのこと、「奇談メモ」も小沢氏と同趣旨のことを自説のように書いていることからして、直接「わたしの赤マント」を参照して書いた訳ではなさそうです。
松山氏の消息は全く不明であるらしく(別名義で活動しているのかも知れませんが)松山氏として「赤マント」について最終的な見解は、2016年12月18日付「松山ひろし『真夜中の都市伝説』(1)」に書影を、2016年12月29日付「松山ひろし『真夜中の都市伝説』(3)」に細目を示した『壁女』に見えているものになるようです。すなわち「第46夜 怪人赤マント」、145頁に本文、146頁に「解説」があります。まづ本文を見ておきましょう。145頁2〜12行め、なお1字めはドロップキャップ(2行×3字分)。
戦争の影が近づいていた昭和十一年ごろのことだ。
小学生の男の子が、学校からの帰り道を歩いていると、電信柱の影に隠れるよう/にして、赤いマントをまとった不審な男が経っているのを発見した。
赤いマントの男は、少年に気づいたのかゆっくりとこちらに近づいてくる。
男の子は恐怖を感じ、今来た道を走って逃げ出した。
すると、その赤いマント姿の男は、“オリンピック選手並み”の信じられないような俊/足で男の子を追いかけてくるのだ。
少年は、あっという間に赤マントの怪人につかまってしまった。
この赤マント姿の男は、子どもを捕らえてはその生き血をすする恐ろしい吸血鬼である/らしい。このころの東京には赤マントの犠牲者がかなり多くでており、警察や軍隊までが/犠牲者の死体の処理に当たっていたという。
松山氏がここに採用した説明の由来については、次回「解説」の方を見てから検討することにして、ここでは先行する松山氏のサイト「現代奇談」の、昨日引用した「現代妖怪夜行」との異同だけ確認して置きましょう。
まづ「昭和の初期」とあったのが「昭和十一年ごろ」と絞られていること。次に、「いずこかへ連れ去ってしまう」人攫いであったのが「吸血鬼」で「犠牲者の死体の処理」が必要なくらい多くの死体が転がっていたらしいこと、それから「噂が流れた」という書き方だったのが「電柱の影に隠れて出没」と「オリンピック選手よりも速く走」るという要素を組み合わせて、「小学生の男の子」が襲われた状況を再現(?)して書いているところ、と云うことになります。(以下続稿)