生徒たちが漢字は見れば分かる程度に思っているのは、親たちがその程度に思っているからであろう。
私の卒論のゼミで、教授が来るのを待つ間に女子学生たちが話すのを聞いていると、――法律や経済に興味がある訳でもない。ここなら日本語だから読めば分かるでしょ、と思って入ったと言うのである。要するに、自分の偏差値で受けられそうな大学・学部を見て行ったとき、まぁとにかくどこでも良くて、国文学なら入ってからの勉強も「日本語だから」何とかなりそうだ、と云うのである*1。
この感覚は、私たちよりも上の代は尚更のことであったろう。
ところがその後、平成に入って、どんどん英語の重要性が増して来た。就職してみると(もちろん職種によっては要らないだろうが)英語を使うことが少なくない。そうすると「読めば分かる」日本語はともかくとして、子供たちには英語をやらせないといけない、と云う気分になってしまう。自分たちだって手を真っ黒にして書き取りに努め、遊ばされながら漢和辞典を使わされ、かなり時間を掛けて散々書いて苦労して漢字を習得したことはすっかり忘れて、漢字は辞書など引かなくとも検索でもある程度分かるし、書けなくても今は打ち込めば良いのだから、くらいに考えているのである。
国語科の教員は電子辞書ではなく紙の辞書を使うよう指導するのだが、電子辞書では何故いけないのか、と云う反応が増えて来た。若い英語科の教師がそんな生徒に同調したりして困らせる。
日本語の表記は漢字仮名交じり文で、漢字が仰山あって数の限られる表音文字(仮名)に限らないから、文字(漢字)を見ただけでは辞書は引けない。その点、英語は26字しかない表音文字のアルファベットの組合せだから、発音はaが「ア」だったり「エイ」だったりするけれども、その読み方が分からないと引けないと云うものではない。しかしながら日本語は読みを推定しないと引けない。推定した読みを当たっても国語辞典で探せなければ、漢和辞典の総画索引か、その部首の項目を見て行って探すことになる。いや、そうするべきなのである。
ところが、どうも漢和辞典は引いたこともないみたいだし、国語辞典もそこまで使っていないらしいのである。10点満点の小テストで3点ばかり取って「見れば覚えられる」と言っているのは、書くのを強制された経験もないのであろう。
ところが、携帯電話で読みの問題を答えられなかった連中の後輩たちは、手書き入力を手中にしてしまった。これでは推読もあったものではない。部首を意識しなくとも、パネルにそのまま、いや、好い加減にそれらしく書けば良い。総画数を確認するにも及ばない。――何度も云うが、このような手軽な方法は、身に付けたけれども老化によって思い出せなくなった人が確認の補助として使用するべきであって、これから学ぼうと云う者の採るべき方法ではない。手が真っ黒になるまで書いて、そして辞書を手垢で汚れる程度にまで引き込まなければ、漢字の仕組みが何とはなしに分かるに至らない*2。国語関係者の怠惰のために既にその機会はほぼ失われたと云って良いであろう。
漢字検定に、役に立ったような印象を受けた覚えがない。漢字を何となくであってもそれなりに、小学生の頃までに体系立てて身に付ける機会がなかった高校生たちにとって、漢検対策の勉強は漢検だけに限定された勉強にしかならなくて、一々リセットしてしまうのである。だから、クラスのほぼ全員が漢検3級を取得しているからと思って、当然分かっている前提で文字や熟語について話をすると、全く通じていない、と云うことがしばしばあった。準2級でも2級でも同じである。もちろんどんな話でも通じる、目から鼻へ抜けるような聡明な美少女もたまにはいるが、大抵の生徒は漢検の問題集をいくらやってもそれは漢検の範囲内に限定されたものとして処理されていて、その後の授業で教科書に、少し前にやった漢検対策問題集と同じ熟語が出て来ても、もう結び付けられないのである。これではいくらやっても世界が広がらない。そうこうしているうちに、日本語の語彙が痩せて、全て易しい、いや、馬鹿みたいな言葉に置き換えれば良い、と云う風潮になって来たのである。(以下続稿)