瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

手で書かずに変換する(3)

 一昨日からの続き。
 私は父の仕事の都合で3年か4年に1度、転居して来た。そして幼少の頃から人に合わせるのが苦手だった。むしろ人を自分に合わせたのである。小学3年生から5年生までを過ごした新興住宅地の小学校は、そんな私にとっては理想的な環境だった。学級会では、善悪理非を糺してクラスにとって最良の提案をするよう努めた。担任にとっても私のような生徒は便利だったろう。個人的な好悪や不利益を考慮せずにとにかく合理的に判断することにして、上手く行っていたのだが、しかし小学6年生の転校先で、私は打ちのめされることになる。合理主義的な「正しさ」だけでは集団は動かないのである。以来、私は個人主義になった。不合理な集団には深入りせずに、我が身は自分の思うようにさせてもらうことにしたのである。だから気に入らないクラスなら文化祭にも運動会にも参加しなかった。しかし既に理想とする主義のために行動している訳ではない。集団を引っ張るために、個人的な事情を優先していないことを敢えて示すためにも理想が必要だったのであり、単なる個人行動に、理想など必要ないのである。
 だから、高校非常勤講師を始めて見て、集団に従って暮らしている生徒たちの窮屈さと、妙な理屈が気になって仕方がなかった。――どこの学校でも年に1回か2回或いは3回、全校で漢字テストを実施する。男子高でも年明けに通常の10点満点の小テストではなく毎週の授業時間を1時限潰して100点満点のテストを行っていて、成績上位者を掲示していた。私が1クラスだけ担当していた2年生の現代文のクラスは惨憺たる結果だったろうと思うがもう記憶がない。覚えているのは、1人だけ70点台の得点で成績上位者の掲示に出た者がいたことである。
 このテストは専任教諭が監督していて、今はどうだか知らないが、当時は監督時間中に雑務をこなす人がいて、どうも私の現代文のクラスの監督はそういう人が当ったらしい。国語科の人だったが話す機会がなく、小テストに於ける携帯電話カンニングが横行していることも、打ち明けずにいた。誰が監督に入るのか教えてもらえないし*1講師は普段教科会にも参加しないからそういう話をする機会もないのである。
 だから机間巡視も全くと云って良いほど行わなかったらしい。それで、私のクラスの生徒が上位に食い込むことが出来たのである。
 監督していた専任教諭は、現代文の成績が良くない、と云うか、悪い、その生徒が上位に食い込んだことを、素直に喜ばしいことと捉えてわざわざ私にもその嬉しい驚きを語ってくれたから、今更カラクリについて説明する訳にも行かずに困ったのであるが、もう1つ、私を困惑させたのは生徒たちがその生徒について「この漢字テストでカンニングして掲示されるなんてあいつは馬鹿だ」と笑っていることであった。要するに、自分たちは目立たないようにやっているのに、こんなに目立ってしまったのは馬鹿だと云うのである。しかしながら私からすれば目糞鼻糞、五十歩百歩の類でしかないと思うのだけれども、要するにバレなければ良いと云う理屈らしい。一応「先生」である私にバレているのに、そんなことを私に言って来るのが妙なのだが、そこは学校に所属している訳ではない非常勤講師の気安さなのであろう。
 私が講師を始めた頃には、こういう気安さがあった。専任には打ち解けない生徒が、講師を頼って来る、と云うパターンが多く見られた。もちろん専任を頼る生徒もいたろうけれども。
 それはともかく、小テストではカンニング常習犯の目糞でありながら大きな漢字テストでも百歩進んでカンニングを実行した鼻糞を笑い、五十歩のところで踏みとどまっている自分たちが正しいかのように言う、彼らの集団としての正義(?)が、私にはどうにも不可解なのであった。(以下続稿)

*1:こういうテストがあることも知らなかったかも知れない。