瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

手で書かずに変換する(2)

 昨日の続き。
 1年生の古典も出来なくて(と云うか、身の丈に合っていない考査問題に1年間付き合わされて)困ったが、授業のことなど、今となっては殆ど覚えていない。生徒のことは何人か覚えているが、個人的なことになるのでここに書くには適さない。講師室がなく、講師は職員室の一隅に席を与えられていたので、講師同士が親しく話す機会も殆どなかった。だから同僚のことも、恐らく専任の募集に応じて専任になった親切な若い英語の男性講師と、背広がチョークの粉を吸ってしまうからなるべく避けた方が良いと云う暮らしの智恵を伝授してくれた社会科の男性講師の2人くらいしか覚えていない。隣の席の人のことも覚えていないのである。
 しかし2年生の現代文は、前年教えていた共学高の商業科ほどではないが殆ど授業にならなかったので、流石に覚えている。尤も、今となっては回想しても、もう感情を伴わなくなっている。もちろんここには、一般的な話題として通じそうな事柄を書くつもりである。
 ――毎週の漢字テストを採点しているうち、妙なことに気付いた。
 私の小学生の頃、中学・高校でも良いのだが、漢字テストと云えば、読みの方が簡単で、書きの方が点が取れないものだった。ところが、連中は読みが殆ど出来ないのに、何故か漢字を書いて来るのである。
 読みも書きも同じレベルの漢字が出題されるのだから、どちらかが出来て一方が殆ど出来ない、と云うのはおかしい。いや、私などの学生時代は、読みは何とか出来ても、書きの方が出来ない、と云うのが普通だった。ところが、逆なのである。全然読めないのに、書ける。
 彼らの学力は、本当にお話にならない。専任教諭が持ちたがらず宙に浮いていたくらいである。それなのに書けるのである。もう1つおかしいのは、同音異義語を書く連中が少なくないのである。例文の文意が取れていない、と云う以上に、何か事情がありそうである。
 そこで、テスト終了まで絶え間なく意識して机間巡視し始めたところ、すぐにカラクリが判明した。彼らは机の中に携帯電話を隠して、机の陰で読みを打ち込んで、出て来た語句をそのまま書いているのであった。――これまで通り全く予習せずに漢字テストに取り組んでいた生徒たちは、携帯電話を使わないと全く書けないから、私が机間巡視を始めたからと云って急にカンニングを止められないのである。もちろん40人(何人いたかもう覚えていないが)の生徒に私は1人だから、隙はある。だからそこを狙って携帯電話を操る。しかし教室の後ろに立って見渡せば大体分かるのである。バレバレである。
 これで、書けるのに読めない理由は分かった。読みの問題は漢字が示されているから、入力出来ない彼らにはどうしようもないのである。そもそも、部首と旁から意味を類推したり、旁が大抵、音を表しているなんて発想を身に付けるに至っていない。しかし、書きの問題は片仮名になっているから、そのまま打ち込んで変換して、もちろん同音異義語が複数ある場合、文脈に合ったものを選択するだけの能力はないし(この点からも、同音異義語を一目で見渡せる紙の辞書を使用させるべきだと思う。変換して探すのは分かっている言葉を俄に思い出せなくなった老人向けで、学習向きではない)もちろん時間の制限もあるから差当り最初に出て来たものを書いて、それで同音異義語の答えがやたらと多くなったのである。
 しかし、面倒なので取り上げたりはしなかった。何人もいるので追い付かない。最近の生徒は往生際が悪くて、1人を捕らえても、却って、あいつもやっていたのに何故俺「だけ」が、と逆切れするのである。じゃあこいつ「だけ」悪者にしないように、カンニングしていた奴は全員携帯電話を出せ、と言ったところで誰も出さないに決まっている。大体が初犯ではなく、そういう要領「だけ」は頗る良いから、言い逃れも慣れたものである。それだのに一々取り上げていたら土竜叩きみたいになってしまう。それになんで高校生相手に、そんな小学生みたいな対応をせにゃあならんのか、と私は思うのである。
 もちろん、カンニングをした生徒を一々チェックして、その漢字テストの点を0点にするとか云ったこともしなかった。級友が不正をして得をしていることが分かるのは、私よりもむしろ近隣の席にいて不正の一部始終をずっと見ている生徒の方である。生徒自治で何とかするべきなのであって、生徒もそれを見逃すようであれば、それを騒がない方が良いと判断している訳で、それは世間で、法の抜け穴とかを見付けて、例えば税金を払わずに済ませている人を上手いことやったと羨まないまでも見逃しているのと変わらない。クラスの空気がそのような連中を容認するのであれば、私のような一介の講師が云々しても仕方がないと思うのである。
 それから、学力を付ける機会を逃しても点数だけは稼ぎたいと云う感覚が、私にはどうも分からない。勉強したくなければ、しなければ良いではないか。漢字テストの点で進級に関わるわけでもない。いや、こういう実情を見ているから、平常点等も考慮する推薦入試などが、どうにも信用出来ないのである。本当かどうか分からない高校の申告*1など相手にせず、大学が自信を持って出した問題をどの程度解けたか「だけ」で見れば、それで十分ではないか。(以下続稿)

*1:全く信用出来ないほど滅茶苦茶で虚偽に満ちているとは云わないが、例えば推薦入試の基準になっている評定平均など、高校ごとに出し方が区々なのにどうして基準に出来るのか。――高校の内部では物凄く神経質に付けており、それがまたいろいろと問題を生じさせていると思うのだが、そのことは別に書く。