・張華『博物志』の「千日酒」(1)
昨日の続きで、千日酒の話を、張華『博物志』卷十「雜說下」より抜いて置こう。
西晉(265〜316)の張華(232〜300)の『博物志』と、東晉(317〜420)の初期の人・干寶の『搜神記』とでは、『博物志』の方が先行している訳だが、そのあっさりとした記述からしても、ここから落語に発展したとは見なしがたいのだけれども、この『博物志』の末尾の一文から、この話が当時大変広まっていたことが察せられるのである。
差当り、国立国会図書館デジタルコレクションにて3種の本を閲覧した。
まづ『漢魏叢書』本の本文を抜いて置こう(和刻本ではないので白文である)。
昔劉玄石於中山酒家酤酒酒家與千日酒忘言其/節度歸至家當醉而家人不知以爲死也權葬之酒【卷十ノ二丁裏】家計千日滿乃憶玄石前來酤酒醉向醒耳往視之/云玄石亡來三年巳葬於是開棺醉始醒俗云玄石/飲酒一醉千日
乾隆五十七年(1792)序刊『増訂漢魏叢書』では「玄石」が「元石」に改刻されている。これは康煕帝の諱「玄燁*1」を避けたためである。
他に、巻末に跋文1丁(卷十ノ五丁)が追加された江戸時代の和刻本がある。跋文の末尾(五丁裏3行め)に「弘治乙丑春二月工部主事姑蘇都 穆 記」とあり、すなわち明の弘治十八年(1505)二月付で、蘇州の都穆(1459〜1525)により書かれたものである。
卷之十、三丁表1〜5行め、今回は訓点を省いて漢字の配列のみ見て置く。
昔劉玄石於中山酒家酤酒酒家與千日酒忘/ 言其節度歸至家當醉而家人不知以為死/ 也權葬之酒家計千日滿乃憶玄石前來酤/ 酒醉向醒耳往視之云玄石亡來三年已葬/ 於是開棺醉始醒俗云玄石飲酒一醉千日
次回、この和刻本の訓点に従って書き下し文を作成することにする。(以下続稿)