瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

美術の思ひ出(4)

 昨日、中学の担任の美術教師の助言に従わなかったのは、自分勝手だからだ、と述べたのですが、自分勝手にならざるを得ないところもあったのです。
 父の転勤に従って3〜4年ごとに転居していましたから、身近に、昔から私のことを知っていて、いざと云うときに頼りになるような友人がいませんでした。当時は連絡も簡単には付きませんから、引越すとそこでリセットされます。私はそうでなくてもやりたいことが多い人間なので、小学校から中学・高校と進むにつれ、だんだん交遊圏も狭くなって行きました。
 美術部の件も、地元に残っておれば同じ高校に進学した同級生が必ずいたはずですし、そうでない連中とも同じ駅から通学するので会う機会があったでしょうから、何かの折に「あそこまで言われて無視するのか?」と忠告してくれたかも知れません。しかしながら、卒業式の直後に兵庫県に転居した私は高校時代には中学の連中と会うことはついぞなく、結局以来30年余り、中学の同級生たちとは全く会うことなく経過してしまいました。
 さて、話を卒業前のことに戻しますが、私は兵庫県の父の単身赴任者用の寮に泊まり込んで受験し、それから引越の準備と卒業式のために戻って、卒業式の朝は、同級生で金を出し合って買った記念品を、私は殆ど関わっていなかったのですが1人遠方に行くと云うことで私が代表で担任に渡しました。
 全校生徒が2000人を越えていた時代には1人1人に卒業証書を手渡すようなことがなかったらしいのですが、1500人に減ったのと、市内でも有数の荒れた学校だったのを立て直した校長の意志で、1人1人授与されることになりました。
 そして私も校長から証書を受け取って、壇から下りて来賓の横を通るとき、来賓の中から「これが××××です」と私の名を誰かに告げる男性の声が聞こえました。――横浜市では毎年「社会科研究発表会」と云って、夏休みの自由研究の優秀作品を学校ごとに推薦して、教育会館かどこかに展示していたのです*1が、私は独自の調査に基づく力作を提出して、学年で1人か2人*2の学校代表に3年連続で選ばれていたので、それなりに注目されていたらしいのです。
 ですからこちらの方面でも、そのまま神奈川県に残っていたら、もう少し何か、私の性情を捉えながら上手く放恣に流れないよう手綱を締めてもらえたかも知れない、と、そんな気もするのですが、――転居の度毎に、3〜4年の間に漸く慣れて来た方言や習慣やらを引っ繰り返され、そんなものだと思いながら、ふと、あのまま過ごすことが出来たら流石にここまで奇矯にならずに済んだろうに、と思ってしまうのです。
 もちろん、その分、他の人にはない、人間関係に繋がれない気楽さを覚えていたことも確かですけれども*3、或いは、私が別の考え方・別のやり方・別の可能性をすぐに思い付いてしまうのは、こう云った以前住んだ土地と、今住んでいる場所との間での、考え方・やり方の違いに引き裂かれ続けてきた少年期の体験により、叩き込まれてしまったのかも知れない、と思うのです*4
 最前、中学の同級生とは卒業式以来会っていないかのように*5書きましたが、実は卒業式の数日後、粉雪のちらつく3月末の民営化直前の国鉄の駅で、同級の女子たちに会っていたのでした。それは2017年5月6日付「スキー修学旅行(3)」に取り上げた「なごり雪」のようにまさに引越当日だったのですけれども、私ではそんなロマンティックなシチュエーションにはならなかったのでした。すなわち、兵庫県まで青春18きっぷで10時間以上掛けて移動することにして朝、下りの電車を待っていたところ、相対式ホームの向かい側、上りホームに同年輩の女子がわいわい上がって来たのを見ると、どうも同級の女子らしいのです。私は中学の間に視力がどんどん悪くなったのですが眼鏡を掛けていなかったので、はっきり見えた訳ではないのですが、どうもそうらしい。
 学校に行くようなまだ早い時間に集まって、かなりはしゃぎながら出掛けようと云うのですから、どうやら学校の卒業遠足で出掛けたものの行列のせいで皆、余り愉しめなかったらしい東京ディズニーランドにもう1度みんなで最後の思い出に行ってみようとでも云うのでしょう。向こうがこちらに気付いたかは分かりません。気付いた人もいたでしょうけれども、挨拶するとすれば春休みで学生はいないにしても通勤客がそこそこいるホームで、複線の線路を距てて言葉を交わすことになります。硬派(?)の私にはとても耐えられない状況で、しかも私の身なりが、これでもう最後だと思って着ていた、3年間着古して袖丈が足りなくてつんつるてんの中学の学ランだったのですから、まぁ向こうもいくら今生の別れになるかも知れなくても、こんな妙な感じの野郎に声なんか掛けたくならなかったでしょう。――ここに告別のシーンでもあったらちょっとドラマみたいだったのですけれども。それで別に何ともしないままどちらかの電車が来て、そのまま30年余り誰とも会わないまま、これから会うこともないだろうと思うのです*6

*1:見に行ったことはありません。今にして思うと、1度くらい見て置けば良かったのですけれども。

*2:学校で1人か2人だったかも知れません。

*3:この気分に浸り過ぎたせいで、携帯電話のような常に繋がれる装置を持ち歩こうなど真っ平御免なのである。歩いているときは、前後左右に気を配りながらただ歩けば良いのである。

*4:【11月19日追記】差当り今住んでいる土地の考え方・やり方に従って置けば良かったのでしょうけど、無批判にそのまま受け容れるような藝当が私には出来なかったのです。小学生の頃には多数に自説を主張して痛い目にも遭っていますから、主張はしませんでしたが、……この辺りの事情は長くなりそうなので、改めて考えて見ることにします。

*5:【11月19日追記】「、と」を「かのように」に改めました。

*6:やはり親の転勤先である東京で大学に進学し、そこで教員免許を取りましたから、教育実習の母校は兵庫県の高校ではなく、片道1時間半くらいで通える中学に行きましたが、2017年12月29日付「講師室の思ひ出(2)」に述べたように、修士課程の院生時代に行ったので同学年の者には誰も会いませんでした。約10年振りの母校には知った教員もおらず、現役合格で学部4年なら3年前に来ているはずの同学年の実習生たちについても、全くその消息を聞くことはありませんでした。駅でばったり会うなんてことも、全くなく。――10年くらい前にNHKニュース「おはよう日本」の「まちかど情報室」に、同級生の1人が家族とともに出演していたのを見ましたので、全く何も知らない訳ではないのですけれども。【2019年2月28日追記】この同級生のことは、2012年3月31日付「角川文庫の『竹取物語』(02)」に既に触れていた。