・末広昌雄「雪の夜の伝説」(9)
普通に考えたらどうなるのか、と云うのが私の基準です。常識的に考えておかしなところを突っ込んでみると、大抵そこに隙間があるのです。別に奇を衒っている訳ではありません。そして、その隙間には――上手く繋がっていないところには、必ず理由があるのです。
こういう話が好きで、学問みたいなことに志したこともあるのですから、民俗学にも触ってはみましたが、どうも、全くモノにはなりませんでした。あれは飛躍だらけの隙間だらけに見えてしまうのです。まぁ不得手と云うことで、私がやらなくてもそういう方面から切り込もうと云う人に任せて、私は私の得手を進めて行けば良いと思っているのです。
さて、冬季閉鎖の蓮華温泉に「雪の夜」と云う舞台設定の話が語られるようになったのは、末広氏が白銀冴太郎「深夜の客」を剽窃して「山と高原」誌に投稿するに際して、このような設定にしてたからだ、と思うのです。この、実は有り得ない設定の変更こそが、何のことはないように見えて、やはり何らかの明確な理由なしには為し得ないものだと思うのです。
以下、現時点での私の考えを述べてみましょう。本当なら「山と高原」誌の他の投稿など、末広氏の著述活動をもう少々点検してからにするべきなのですが、目下その余裕がありません。しかし書かずに置くとこのまま忘れてしまいそうです。飽くまでも有り得べき仮説として述べてみたので、8月11日付(30)と同様に灰色にして置きました。
昭和30年(1955)11月、末広氏は「冬山の伝説」を「山と高原」に投稿して初めて採用になりました。編集部から謝礼と、似たような題材の投稿を歓迎する旨の返信が届きます。これに励まされて、末広氏は古い雑誌から面白そうな山の話を探します。どうやって30年近く前、昭和3年(1928)の「サンデー毎日」に逢着したのかは、ちょっと想像しがたいのですが、何かしら縁があって白銀冴太郎「深夜の客」を閲読して「面白い」そして「使える」と思ってそのまま使ったのでしょう。引用について意識の低い時期で、一読、怪談をそのまま記録したと云うより小説と云うべき作品だと察せられそうなものですが、「一頁古今事實怪談懸賞」の入選作であってみれば末広氏は小説ではなく蓮華温泉に伝わっている話に若干色を付けたもの、と考えたのでしょう。伝承されている怪談だとすれば、誰が聞いても同じ、すなわち筆者の創意工夫のようなものは想定されないので、末広氏は別に気が咎めることもなく、もちろん盗用といった意識もないまま、とにかく世間に知られていない話を掘り出して、「山と高原」誌に投ずることによって広く山岳愛好家に紹介しよう、と云う意気込みだったのでしょう。
時期はズレますが時期を合わせるためには半年待たないといけません。もちろん出掛けたこともない場所ながら、冬季は湯治客がいなくなるであろうことは容易に想像されたのですが、「深夜の客」の書き方がさほど明確でないこともあって、あまり深く考えることなしにとにかくこれを使いたい、この話であれば(戦前「サンデー毎日」の懸賞に入選しているくらいですから)採用になると考えて、そこで1月号に合わせて冬山のこととしたのでしょう。――舞台を雪の中にして見ると、晩秋の月夜よりも印象が際立つようです。結果として時期がおかしいと指摘するような意見も、どこかで読んだようだと云う意見も特に出なかったようで、編集部からは採用の通知と続けて投稿を促す返信が届き、しばらく連載に近い形で「山と高原」誌に寄稿することとなったのです。
後年、「あしなか」に旧稿を使い回したのも、同じような気持ちからと考えて良いのではないでしょうか。末広氏が「山と高原」に寄稿したのは昭和32年(1957)12月号(第二五四号)までで、昭和40年(1965)の「山と高原」廃刊(末期には「ケルン」と改題)よりも早くに投稿しなくなっているのですが、もはや記憶している人もいないだろうと考えて、これも広く民俗に興味を持った山岳愛好家に紹介しよう、と云う意図だったと思われるのです。「山と高原」に投稿したときと同様に、盗用・流用を指摘するような意見もなかったために、「大和の一本足」以来、たびたび「山と高原」の旧稿を「あしなか」に回し続けていたらしいのです。すなわち、9月6日付(47)の最後に触れた、シリーズ 山と民俗6『山の怪奇・百物語』に寄せた「奥那須安倍ヶ城の怪」も、初出は「山と高原」昭和31年(1956)9月号(第二四〇号)で、これを使い回したらしいのです。
もちろん、この筋を確定させるためには、末広氏の「山と高原」と「あしなか」の投稿を整理した上で、検証を加える必要があります。今は取り敢えず「雪の夜の伝説」と「山の伝説」の関係から想像し得る仮説として、提示して置きます。(以下続稿)