瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(75)

・末広昌雄「雪の夜の伝説」(10)
 「あしなか」第弐百弐拾四輯掲載「山の伝説」所収「山の神の伝説」は、実は「山と高原」第二三三号掲載「雪の夜の伝説」所収「狩山の鼠」の書き直しでした。
 そして平成4年(1992)の「あしなか」では、9月14日付(55)に見たように、末広氏は「昭和三十年代に残雪の東北の山々を歩いた時に、珍しい山の神の伝説を聞いた」と主張していました。昭和31年(1956)の「山と高原」二月号に既に書いているのですから、末広氏が「残雪の東北の山々」を訪れた「昭和三十年代」とは、昭和30年(1955)春と云うことになりそうです。まぁそこまで厳密に考える必要はないかも知れませんが、一応そう云うことになります。
 9月14日付(55)で確認したように、国鉄阿仁合線の荒瀬駅は昭和38年(1963)10月の開業ですが、北に2.4kmの阿仁合駅までは昭和11年(1936)9月に開業しているので、昭和30年に神奈川県藤沢市の人がこの辺りまで旅行することは、時間は掛かりますが困難と云うほどではありません。
 しかしながら、一昨日まで検討した白銀冴太郎「深夜の客」の剽窃を見ても、末広氏は信用のならない書き手と云うべきです。そしてこの「狩山の鼠」=「山の神の伝説」でも、9月14日付(55)及び昨日も注意したように「北秋田郡荒瀬村」と云う戦前の行政区画名を持ち出しているところに綻びが窺われるように思われるのです。いえ、この疑念は「山の神の伝説」に御丁寧にも、現地を「歩いた時に、‥‥聞いた」と書き加えたことでいよいよ深まったと云うべきで、そう考えてみると関東の若者が昭和30年(1955)に、現地の人と話が通じたのだろうか、と云う疑問も浮かんで来ました。現地に親戚でもいて、或いは親がこの辺りの出身で、現地の言葉に通じていれば纏まった内容の話を聞き出すことも可能でしょうが、さもなければ相当困難だったことでしょう。しかしながら、末広氏の他の著述を眺めても、秋田県の辺りに特に縁があったようには思われないのです。
 すなわち、末広氏は「山の宿の怪異」を昭和3年(1928)の「サンデー毎日」から剽窃したのと同様に、これと抱き合わせた「狩山の鼠」=「山の神の伝説」も昭和12年(1937)以前「北秋田郡荒瀬村」時代の文献をそれと断らずに使っているのではないか、と思われて仕方がなかったのです。
 そこで「山の宿の怪異」の検討記事を上げるのと並行して、武藤鉄城(1896.4.20〜1956.8.30)の次の本を借りて眺めたりしました。

秋田マタギ聞書

秋田マタギ聞書

 類話は載っていましたが、荒瀬の話は出ていませんでした。――私は別段マタギに興味がある訳でもないので、他のことにかまけてメモも取らずに返却してしまいました*1。他にも Wikipedia「小玉鼠 (妖怪)」項に、類話の典拠として挙がる村上健司『妖怪事典』*2と、その改訂版と云うべき KWAI BOOKS『日本妖怪大事典』も眺めたのですが、なかなか昭和12年(1937)以前の「北秋田郡荒瀬村」には辿り着けませんでした。
妖怪事典

妖怪事典

日本妖怪大事典 (Kwai books)

日本妖怪大事典 (Kwai books)

改訂・携帯版 日本妖怪大事典 (角川文庫)

改訂・携帯版 日本妖怪大事典 (角川文庫)

 しかしながらこの間、女子美術大学焼身自殺について、そして杉村顕(顕道)の「サンデー毎日」掲載歴について、川奈まり子東雅夫が、ネットでも検出可能な情報を今一歩詰めが甘くて見逃していた事実を指摘し、批判したのに、私も十分そっちを詰めていなかったように思えて*3、昨日「見付けていません」と述べたところですが今日帰宅して、Google で「荒瀬 小玉鼠」で検索して見たところ、あっさりと末広氏が依拠したと思しき、昭和12年以前の「北秋田郡荒瀬村」の文献がヒットしたのでした。(以下続稿)

*1:しかしながら、末広氏の話の初出が昭和31年(1956)であって見れば、昭和44年(1969)武藤氏歿後刊行の『秋田マタギ聞書』初刊より前のことになりますので、荒瀬の話が見付かって結び付けてしまったら、誤った筋を1本余計に引くことになってしまっただけでした。

*2:もう1つ挙がる草野巧・戸部民夫『日本妖怪博物館』は未見。

*3:しかし、活字とブログでは(私は古い人間なので尚更)違うと思っています。――現に(?)、今のところ当ブログで指摘したことについて(古いところではギンティ小林の「三本足のサリーちゃん」の時期など)何ともなっていないようですし。