瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(72)

・末広昌雄「雪の夜の伝説」(8)
 昨日の続きで、今回は「山と高原」第二三三号54〜56頁に掲載された「雪の夜の伝説」の1話め「山の宿の怪異」の結末を抜いて、9月14日付(55)に見た、「あしなか」第弐百弐拾四輯13〜17頁「山の伝説」の1話め「山の宿の怪異」の、11月28日付(68)に仮に【M】冬眠に入る宿とした箇所との異同を、太字にて示して見ました。
 56頁2段め7〜14行め、

‥‥。今迄、月の冴え渡っていた天気も/急に変ったのか、さーっと雪の吹きつける/音がし始めた。その上に風さえ伴って、本/格的な吹雪になるらしい。かくして、この/宿は再び春が来る迄、一人訪問者のない/まま、静かにこの山中で冬眠に入るのであ/った。


 ここは「吹雪」を「雪降り」に変えたのが目立つ程度です。
 さて、この、白馬岳の旅館――蓮華温泉を舞台とする話が雪の時期に設定されていることについて、私は(山岳部員だったからと云うことになるのでしょうか*1)疑問を持っていました。
 通常、山小屋は登山シーズンのみの営業で、冬季は閉鎖されます。この蓮華温泉の話も2011年1月25日付(09)に引いた現代教養文庫666『日本怪談集―幽霊篇―』に「九月になって湯治客も山を下り」とあるように、秋になると皆、山を下って近々冬季閉鎖になるような描写があり、実際に調べてみると9月13日付(54)に引いた通り、当時は9月いっぱいの営業だったのでした。
 しかるに、気候的に有り得ない積雪期の話になっているのがどうにも気になっていて、私は当初これを、8月5日付(24)に述べたように、2011年1月3日付(02)に引いた、阿刀田高「恐怖の研究」の影響ではないか、と考えていました。
 しかるに9月11日付(52)に引いた末広昌雄「山の伝説」を見るに、「小泉八雲の「雪女」にも負けない、山中の雪の夜の伝説」としてこの話が紹介されているのです。それで、或いは蓮華温泉の話で雪の夜の設定にしたものが早くからあったのか、と思ったのですけれども、平成4年(1992)の「山の伝説」以前に、2011年1月22日付(07)及び2011年1月23日付(08)に引いた、昭和57年(1982)初出の『現代民話考』が「吹雪の夜中」としているのですから、これでは私の従来からの想定、すなわち、昭和50年(1975)初出で直木賞候補になった昭和53年(1978)刊行の短篇集『冷蔵庫より愛をこめて』に収録された阿刀田氏の「恐怖の研究」の影響で、じわじわと「大雪」や「吹雪」設定が浸透して行ったのでは、との想像を覆すことにはならないなぁと思ったのでした。
 しかしながら、末広氏の「山の伝説」の「古い山日記より」との副題に注意するとき、ひょっとすると末広氏は、かなり以前に別の人が「雪の夜」のことととして「深夜の客」を剽窃して書いたものを見て、それを「古い山日記」にメモして置いたのを平成4年(1992)の「あしなか」第弐百弐拾四輯に「山の宿の怪異」として使った、との可能性も考慮されるので、それで末広氏の過去の著述の検索から見当を付けたものの1ヶ月半ほど保留すること*2になってしまいましたが、末広氏の「山の宿の怪異」の初出は「あしなか」ではなく、昭和31年(1956)の「山と高原」第二三三号掲載の「雪の夜の伝説」であることをはっきりさせることが出来ました。そして、この「雪の夜の伝説」の本文がより「深夜の客」に近いことが分かってみれば、剽窃を行ったのは末広氏本人で、何らかの(余り重要ではない)理由により「雪の夜」との設定を構えたと云う可能性が極めて高くなるのです。
 そうすると、この話が流布した事情について、次のような説明が可能になって来ます。すなわち、「雪の夜」設定がこの「山と高原」誌掲載の末広昌雄「雪の夜の伝説」に由来すると考えれば、2011年1月8日付(04)に引いた、加門七海の『信州百物語』所収「蓮華温泉の怪話」の要約が、何故か原文にはない「ある雪の晩」と云う設定になっているのも、9月13日付(54)の注に注意して置いたように、2011年1月22日付(07)に引いた加門氏の対談での発言にある「山登りする知人」に聞いた話がそうなっていたのだと思われるのです*3
 この話の根強い伝播と云うことを考える上で、私はこれまで、杉村顕(顕道)の『信州百物語(信濃怪奇傳説集)』が戦後までたびたび増刷されていたことに注意していたのですが、時期は「秋」と云うことで、雪の夜の設定ではありません。それから現代教養文庫666『日本怪談集―幽霊篇―』はそれ以上に増刷されたはずですが、「九月」でやはり雪の夜ではありません。どこから雪の夜と云う設定が入り込んだのか、ずっと疑問だったのですが、昭和31年(1956)に山岳雑誌「山と高原」に出ていたのです。だからこそ『現代民話考』の話の初出である昭和57年(1982)の段階で、写真が持ち出されるところまで発展(?)と云うか成長(?)することが出来たのでしょう。
 11月29日付(69)の最後に、末広氏の「山の宿の怪異」の本文を詳細に検討することに、何程の意味があろうか、との疑問を述べてしまったのですけれども、末広氏の書き換え自体には、確かにさしたる文学的意義はないにしても、この話の流布を考える際、「サンデー毎日」掲載の後、戦争を挟んでそのまま埋もれてしまったかも知れなかった白銀冴太郎「深夜の客」を掘り起こして、現在に至る根強い伝承に繋げることについて、かなり力あったことが(誠に意外なことですが)想像される訳です。(以下続稿)

*1:尤も、私個人は、2017年4月4日付「山岳部の思ひ出(7)」に述べたように雪山の経験も、意欲も全くなかったのですけれども。

*2:さらに記事に書くまでを含めると2ヶ月以上。

*3:尤も、そうだとすると、その知人は私の気付いた蓮華温泉のような条件の山中の宿が冬季営業するのか、と云う根本的な疑問をスルーしていることになりますが、そもそも「山と高原」誌にそのまま載ったように、特に疑問を持たずに受け容れてしまう人の方が多いのかも知れません。