昨日の続き。
前回から文体が敬体になっていますが、その日の気分です。
西村雄一郎『清張映画にかけた男たち 『張込み』から『砂の器』へ』では、橋本忍(1918.4.18~2018.7.19)は昭和39年(1964)1月の父の死が切っ掛けとなって、3月19日付(10)に引いたように松竹社長城戸四郎(1894.8.11~1977.4.18)の猛反対によって「幻のシナリオ」となっていた本作の映画化に向けて奔走することになっていました。しかしながら、橋本氏が執筆から数年を経て漸く本作シナリオを発表した「キネマ旬報」1969年1月上旬号(新年特別号)に添えたエッセイ「一発マクリ」の父の死について述べた続き(シナリオ作家協会 編『年鑑代表シナリオ集 一九六八年版』の406頁中段20~23行め)には、
いずれにしても映画にすることがひどくは/ばかられ、一緒に書いた山田君には本当に申/訳ないのですが、陽の当らない書棚の奥へ放/り込んでしまったような訳です。
と、全く逆のことを述べているのです。そんな橋本氏が漸く一歩を踏み出すのは、次の段落(406頁中段24行め~下段1行め)、
それが昨年の五月、キネマ旬報での松本清/張氏との対談に、同氏の原作である「砂の/器」が話題になり、いろいろと話合っている/うちに、思い切ってシナリオだけは発表する/ような気持になり、キネマ旬報と約束をした【中】ような次第です。
ミスプリントをなおしながら読み終えてみ/て、‥‥
と云う事情からだと説明しています。ついでに次の段落の冒頭も抜いて置きました。
それはともかく、西村氏は本作映画化にとって意義があったはずの、原作者との対談、「キネマ旬報」へのシナリオ発表、そしてシナリオ作家協会のシナリオ賞《特別賞》受賞、と云う動きについて何故か全く触れないのです。とにかく映画公開の5年前の昭和44年(1969)には、雑誌と書籍に収録されて本作は「幻のシナリオ」ではなくなっていました。ところが本作について他に幾つか見た文章でも、映画化までの曲折の中にあったこのような周囲の後押しについて、注意したものがないように思うのです*1。
松本氏と橋本氏の対談は「キネマ旬報」昭和43年7月夏の特別号(創刊50年記念特集第①号)に「特別対談」として50~55頁「映画にもう一度革命を――創造の秘密を語る」 と題して掲載されているようです。――この辺りから後の動きを、もう少々点検して見る必要がありそうです。(以下続稿)
*1:もちろん私は殆ど見ていないので、印象以下の見当でしかないのですけれども。