瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(101)

・青木純二『山の傳説』(4)
 一昨日からの続きだが、この辺りは特に書き換えが少ないようである。なお、傍点「ヽ」を打たれている文字は、ルビと同様に再現出来ないので仮に太字にして示した(「深夜の客」には傍点はないようだ)。106~109頁1行め、

『父ちやん、あの人怖いから歸しておくれよ。怖いよ。ね、怖いよ。』*1
 妻をなくしてから母のない子を熱愛してゐる主人は子供の怖えが甚だしいのと、犬があまり吠/えるので紳士が薄氣味惡くなつて來たので決心した。*2
『旦那、まことにすみませんが、お泊することが出來ません。』*3
『どうして。』
『實子供が旦那を怖ろしがるものですから。』*4
 紳士は顔色をかへた。わなわなとからだをふるはせた。*5
『お願ひだから一晩泊めて下さい。』*6
『それが今もいつたやうに子供がこの通り泣いていやがりますので。』*7
『困つたな。』*8
『私も困ります。すみませんが出ていつて下さい。』*9
 紳士はと立上つた。だまつて靴の紐をむすびはじめた。戸を開くと、犬が更にけたゝましく*10【106】吠えた。紳士は逃げるやうに去つて行つた。*11【H】
 十分間ばかりも經つた頃に又もや表戸をはげしく叩く者がある。*12
『開けてくれ。』*13
 主人は氣味が惡くなつたので返事をしなかつた。子供は、怖えつゝ更に縋りついて來たのだ。*14
『おい、開けてくれ、私だ、駐在巡査の松野だ。』*15
 確かに松野巡査の聲である。*16
 主人は表戸を開けた、巡査は和服で突立つてゐる。*17
『早速だが、お前のところに洋服を着た四十ばかりの男が來やしなかつたかい。』*18
『參りました。』*19
『泊つてゐるかい。』*20
『ことわりました。たつた今、ここを出て行きました。』*21
『今、さうか、有難う。』【107】*22
 巡査はたちまちに山道の方へ走り去つた。*23
 と、思ふと、白樺の密林の方にあたつてはげしい人聲が起こつた。主人は、鉄砲を持ち出して/その方向に走り出した。*24【I】
 が、向うからさつきの洋服男を縛りあげた巡査が山を下つて來る姿を見た。*25
『旦那、つかまりましたか。』*26
『有難う、わけもなく捕へることが出來た。おかげで大手柄だ。』*27
『旦那、その男は、何か惡いことでもしたのでございますか。』*28
『人殺しなんだ。越中で、若い女を殺して逃げて來た惡いやつだ。向うの警察からの手くばりで/こゝに逃げ込んだことが分つて追跡して來たんだ。』*29
『人殺し!』*30
 主人はぞつと身ぶるひをした。*31
 犯人は深くうなだれて顔もあげなかつた。そして、巡査に護送されて山道を下つてゆつた*32【108】
 月は、彼らにもあざやけく照り冴えていた。巡査の提灯が人魂のやうに遠ざかつてゆく。*33【J】


 以下、初出に当たる「深夜の客」に於ける異同を、これまでの要領で拾って置く。なお、昨年当ブログに一部引用した「深夜の客」の本文に間々入力ミスがあるが、これは一々断らずに修正した。
 【H】主人の退去依頼と男の退去は一九四頁16行め「実子供が旦那を」、一九五頁4行め「紳士はと立上った。」。
 【J】巡査による男の捕縛と説明2018年8月12日付(31)に引いた。一九五頁8行め「開けてくれ。」、一九六頁13行め「山道を下ってゆくのであ。月は、」と段落分けしていなかった。――ここを「下ってゆった」と改めているのであるが「下っていった」の誤りであろう*34。(以下続稿)

*1:ルビ「とう・ひとこわ・かへ・こわ・こわ」。

*2:ルビ「つま・はゝ・こ・ねつあい・しゆじん・こ ども・おび・はなは・いぬ・ほ/しんし・うすき み わる・き・けつしん」。

*3:ルビ「だんな・とめ・で き」。

*4:ルビ「じつ・こ ども・だんな・おそ」。

*5:ルビ「しんし・かほいお」。

*6:ルビ「ねが・ばんと・くだ」。

*7:ルビ「いま・こ ども・とほ・な」。

*8:ルビ「こま」。

*9:ルビ「わたし・こま・で・くだ」。

*10:ルビ「しんし・たちあが。くつ・ひも・と・ひら・いぬ・さら」。

*11:ルビ「ほ・しんし・に・さ・い」。

*12:ルビ「ぷんかん・た・ころ・また・おもてど・たゝ・もの」。

*13:ルビ「あ」。

*14:ルビ「しゆじん・き み・わる・へんじ・こ ども・おび・さら・すが・き」。

*15:ルビ「あ・わたし。ちうざいじゆんさ・まつの」。

*16:ルビ「たし・まつの じゆんさ・こゑ」。

*17:ルビ「しゆじん・おもてど・あ・じゆんさ・わ ふく・つゝた」。

*18:ルビ「さつそく・まへ・やうふく・き・をとこ・き」。

*19:ルビ「まゐ」。

*20:ルビ「とま」。

*21:ルビ「いま・で・ゆ」。

*22:ルビ「いま・ありがた」。

*23:ルビ「じゆんさ・さんだう・はう・はし・さ」。

*24:ルビ「おも・しらかば・みつりん・はう・ひとごゑ・お・しゆじん・てつぱう・も・だ/はうかう・はし・だ」。

*25:ルビ「むか・やうふくをとこ・しば・じゆんさ・やま・くだ・く・すがた・み」。

*26:ルビ「だんな」。

*27:ルビ「ありがた・とら・で き・おほて がら」。

*28:ルビ「だんあ・をとこ・なに・わる」。

*29:ルビ「ひとごろ・ゑつちう・わか・をんな・ころ・に・き・わる・むか・けいさつ・て/に・こ・わか・つゐせき・き」。

*30:ルビ「ひとごろ」。

*31:ルビ「しゆじん・み」。

*32:ルビ「はんにん・ふか・かほ・じゆんさ・ご そう・さんだう・くだ」。

*33:ルビ「つき・かれ・て・さ・じゆんさ・ちやうちん・ひとだま・とほ」。

*34:8月21日追記】96頁3行め「‥‥山に獵に出かけてゆつた。」ルビ「やま・れふ・で」とあるところからすると、青木氏の癖であろうか。よって見せ消ちにした。