瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学時代のノート(09)

・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(6)前篇⑤ 5人の担任

 6頁9行め~7頁11行め、

 ■田先生は急に転任が決まり、二月二日かそのくらいに、急/に、この学校から出ていかれた。次に■花先生が来た。この/先生は一月余りしかもってもらわなかったので、年賀状/を出したこともない。しかし文集を作るなどしてくれ/た。
 四年になると、クラス替えはなかったが、先生は、パキス/タンのカラチから来たという■■先生という男の先生/だった。一番いい先生だったと思うが、ほとんどパキスタン/にいたときの話ばかりで、これといって怪談という話もな/かった。
 五年の時にクラス替えがあった。先生は、○○小から来た/【6】■本という三十三才の男の先生で、奥さんが、流産するなど/不運も多かったが、野球がうまい、先生で、校長先生に叱ら/れながらも二時間つぶして二回もソフトボール大会を/してくれるなど、やさしい先生であり、こわい先生でも/あった。話題も豊富だったが、「こわい話をしてくれ」と言う/と、
「前の小学校でこわい話をして、夜小便に行けなくなっ/たって苦情がきた」
とか言ってかわしていたが、どんよりくもった日の四時間/目、とうとう話してくれることになった。あつい日ではなか/った。


 校訂案。

 ■田先生は急に転任が決まり、二月二日かそのくらいに、急に、この学校から出て行かれた。次に■花先生が来た。この先生は一月余りしか持ってもらわなかったので、年賀状を出したこともない。しかし文集を作るなどしてくれた。
 四年になると、クラス替えはなかったが、先生は、パキスタンのカラチから来たという■■先生という男の先生だった。一番いい先生だったと思うが、ほとんどパキスタンにいたときの話ばかりで、これといって怪談という話もなかった。
 五年の時にクラス替えがあった。先生は、○○小から来た■本という三十三歳の男の先生で、奥さんが流産するなど不運も多かったが、野球が上手い先生で、校長先生に叱られながらも二時間潰して二回もソフトボール大会をしてくれるなど、優しい先生であり、こわい先生でもあった。話題も豊富だったが、「こわい話をしてくれ」と言うと、
「前の小学校でこわい話をして、夜小便に行けなくなったって苦情がきた」
とか言ってかわしていたが、どんよりくもった日の四時間目、とうとう話してくれることになった。暑い日ではなかった。


 ■田先生は紺のスーツを着て涙を堪えながら朝礼台で急な転任の挨拶をし、そのまま涙を抑えながら急ぎ足で去って行った、そんな記憶がある。そしてその日のうちに、新しい学校で着任の挨拶をされたのではあるまいか。
 恐らく、正規の教員の空きがなくて■野先生の産休代講で私たちのクラスの担任になり、そのまま年度末まで勤めるつもりだったのが、急に正規の枠に空きが出来て声が掛かったので、周囲の勧めもあって移る決断をしたのだろう。もちろん、当時の私たちにそんな事情が理解出来るはずもないから詳しい説明はなかったのであろう。いや、今、私の考えた事情も違っているかも知れないが。
 ■野先生はふっくらして目の大きい人だったように記憶する。■花先生は小柄で和風の美人と云った感じだったと思うが、■田先生の元気に刺激されて来た私たちには、ちょっと物足りなかったようだ。実家の荷物の何処かにあるはずの文集を掘り出せば、また思い出すこともあろうか。
 4年のときの■■先生は、如何にも精悍な顔つきの人で、怪談とは縁がなかったので今書くべきことはまるでないが、別に思い出を書いて置こうと思っている。
 ○○小学校は伏字ではなくて、確かに聞いたはずなのに思い出せなくて書けなかったのである。
 ここで改めて確認して置くと、3年生が昭和55年度、4年生が昭和56年度、5年生が昭和57年度である。■本先生が年度の頭に33歳、前年(1981)に33歳の誕生日を迎えていたとして昭和23年(1948)生と云うことになる。
 当時の先生や友人の誰とも連絡を取っていないが、検索して見るに■本先生は今も健在で、地元の公民館などで写真展を開いているようである。(以下続稿)
9月30日追記】原本の当記事に関連する写真を貼付した。

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