・小沢昭一の赤マント(2)
それでは、昨日の続きで4月4日付「小沢昭一『裏みちの花』(1)」に取り上げた『裏みちの花』にも見える「赤マント」への言及を見て置こう。
2章め「想い出の歌」の扉(頁付なし)をめくって1篇め「新開地育ち」。
《1》『裏みちの花』単行本32~34頁
《2》『裏みちの花』文庫版34~36頁
初出については《1》34頁3行め《2》36頁3行めに下詰めで小さく「(「東京人」一九八七年夏季号) 」とある。
「新開地育ち」は次の本にも再録されている。
《3》『小沢昭一百景 随筆随談選集② せまい路地裏も淡き夢の町』二〇〇三年一二月五日初版・定価2400円・晶文社・375頁・四六判上製本
書名は奥付に拠る。『小沢昭一百景 随筆随談選集随筆』は随筆や対談をテーマ別に6冊に纏めたもので、流行歌の一節が標題に使われている。奥付裏の目録に、番号と二重鉤括弧を補い、書影を並べて見よう。
①『泣いてくれるな ほろほろ鳥よ』――旅
- 作者:小沢 昭一
- 発売日: 2003/11/01
- メディア: 単行本
- 作者:小沢 昭一
- 発売日: 2003/12/01
- メディア: 単行本
- 作者:小沢 昭一
- 発売日: 2003/12/01
- メディア: 単行本
- 作者:小沢 昭一
- 発売日: 2004/02/01
- メディア: 単行本
- 作者:小沢 昭一
- 発売日: 2004/03/01
- メディア: 単行本
- 作者:小沢 昭一
- 発売日: 2004/03/01
- メディア: 単行本
・8篇め「蒲田はぼくのふるさとよ」53~55頁
(『かまたNEWS』一九八五年九月号)
・9篇め「私のふるさと 蒲田」56~57頁
(『日本経済新聞』一九八七年四月九日)
・10篇め「新開地育ち」58~60頁
(『東京人』一九八七年七・八月号)
=『裏みちの花』(文春文庫 刊)収録=
・11篇め「心のふるさと」61~63頁
(『東京人』一九九六年三月号)
=『散りぎわの花』(文藝春秋 刊)収録=
・12篇め「女塚神社」64~66頁
(『朝日新聞』一九九九年七月八日)
=『散りぎわの花』(文藝春秋 刊)収録=
以上は今後言及することがあるかも知れない。
それはともかく「新開地育ち」の赤マントについて触れた箇所を、やや長めに引用して置こう。
《1》32頁12行め~33頁14行め・改行位置「/」
《2》34頁13行め~35頁13行め・改行位置「|」
《3》59頁2~16行め・改行位置「\」
当時の蒲田は、荏原郡*1から東京市に仲間入りしたばかり。まだ林や沼や空地だらけだ|っ\たの/【《1》32】ですが、同時に、例の〝虹の都、キネマの天地〟の松竹撮影所があったりして、|今で\いえば、/なかなかナウイ風の吹く町でありました。こんなサエナイ私でも、この|【《2》34】〝郊外荏\原郡〟の自然/と、〝モダン東京〟の文化によって育まれた*2と、自分では信じてお|ります。
年代でいえば、昭和八、九年から十年ばかりの間。昭和史のなかの、いわゆる暗い時|代\には/違いありません。けれども蒲田の町なかの写真屋の伜*3、昭一少年の毎日のくらし|は、\想い出す/だけでも胸のときめく、極めて刺戟にとんだ日々でありました。
いま、私の脳裏に焼きついている蒲田時代の記憶の齣*4を、思いつくままフラッシュバ|ッ\クで/羅列しますと――
原っぱ、アパート、改正道路、数珠だま草*5、人力車、円タク、雑誌『スタイル』、川|島\芳子、/ビラ撒き飛行機、河村黎吉、突貫小僧、カフェー、私の青空*6、イーグルス、掻|い\掘り*7、赤腹イ/モリ、チョウセンブナ、こうもり、寄席「御園会館」*8、柳家蝠丸、トウ|スミ\トンボ、フーセン虫、/当てムキ*9、下駄かくし、駆逐水雷、夜店、旗合わせ、コリン|トゲー\ム、楠木繁夫、ロッパ、鯱/の里*10、金湊*11、神風号、軍艦カード、赤マント、「あの|ねおっさ\ん、わしゃかなわんよ」……き/りがない!【《3》59】
時期を「昭和八、九年から十年ばかりの間」としているのは、昭和8年(1933)に小沢氏の父・小沢哲男(1949.10.30歿、51歳)が蒲田区女塚町(現・大田区西蒲田)に移って小沢写真館を開業してから、昭和18年(1943)の初め頃に蒲田区道塚町(現・大田区新蒲田)に移るまでを指している。
この道塚町への移転時期と場所についての考証を最後に附すつもりであったが、長くなったの別の記事にした。(以下続稿)