瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

古墳墓の怪(1)

・女七塚の祟り(1)

 小沢昭一『わた史発掘 戦争を知っている子供たちに古い墳墓の祟りの話が載っていた。しかしこの話は世に知られていないらしく、少々内輪めくが古い話でもあるので、紹介して置こうと思ったのである。
 『わた史発掘』の諸本は3月25日付「小沢昭一『わた史発掘』(1)」に示した。章立ては3月26日付「小沢昭一『わた史発掘』(2)」に示した。なお3月27日付「小沢昭一『わた史発掘』(3)」も参照されたい。
 「その四 蒲田篇」にて、「カゾエドシ五歳の時」すなわち昭和8年(1933)移り住んで以来、昭和20年(1945)海軍兵学校予科に入学するまで住んでいた蒲田についての回想を始めている。
 1節め(①単行本53頁2行め~58頁12行め②文春文庫60頁2行め~66頁2行め③岩波現代文庫56頁2行め~62頁15行め)「ユタカちゃん」は、近所の年上の友達2人と、当時の遊びをまづ回想し、その2人のうち1人が、小沢氏が俳優座養成所にいた時分、六本木の俳優座劇場へ芝居を見に来た小沢氏の母に指摘されて、俳優座経営部の座員・町田裕が「ユタカちゃんだ」と気付く、という顚末を叙し、今は俳優座を辞めてジェネラルアーツの取締役になっている町田氏に「わた史」への証言を得るべく会って、2節め「ユタカ・昭一対談」以下この章の残り5節は、全て町田氏との対談に充てられている。そこから察せられる町田氏の経歴は、昭和2年(1927)の早生れで、昭和8年(1933)に相生小学校入学、5年生まで在籍して昭和13年(1938)に東京市役所に勤めていた父親が満洲国新京の東京市の出張所の所長となったことで、6年生から新京の小学校に編入、と云うことになる。俳優座時代のことは「俳優座 町田裕」で検索すると書名や雑誌記事、映画が若干ヒットする。
 その3節め(①60頁11行め~63頁9行め②68頁3行め~72頁20行め③65頁3行め~68頁14行め)「お母さんに会いたい」に、小沢写真館の隣にあった紺屋に触れたところがある。①62頁5~10行め②69頁18行め~70頁2行め③67頁3~8行め、

‥‥。あ/なたのうちの隣に紺屋*1があったでしょう?
小沢 染物を干す高い丸太の先に、夜、ふくろうが来て止まって鳴いたことを覚えてます\よ。
町田 ぼくは、布を張る時の彎曲*2した棒を良く覚えているんだけど、あそこにいた清*3さん\って|【②69】いう職/人の手が真っ青になっていた。
小沢 清さんはよく遊んでくれた。


 この辺りのことは、「その二十三 年表篇」に、より詳しい説明があった。この章は題から察せられるように年表で、上段は「わた史メモ」と云う小沢氏の自分史、下段は「私流年表抄」で歴史的な事件や世相・流行などについて纏めてあるのだが、その、①333頁上段16行め~334頁上段16行め②355頁上段10行め~356頁上段15行め③387頁上段~388頁上段5行め「昭和9年 五歳 幼稚園」条、まづ①333頁上段17行め②355頁上段11行め③387頁上段2行め、

 四月から近所の姫百合幼稚園へ通う。

の1行で始まっている*4が、後半、①334頁上段5行め②356頁上段2行③387頁上段12行めから、次の①334頁上段17行め~335頁上段②356頁上段16行め~358頁上段6行め③388頁上段6行め~389頁上段「昭和10年 六歳 幼稚園」条の全文を抜いておこう。

 隣家は染物屋、というより紺屋*5で、店の裏|\の仕事/場には土中に幾列も甕*6が埋めこまれ、|\それぞれに殆/んど黒に近い紺の染料がなみな|\みと張られてあった。/独特の臭いがしたのは|\ニカワであろうか。そして、/さらにその裏に、|\広い干し場があって、太く長い丸/太が何本も|\立ち、そこへ藍染の過程の長い布が、両/端に|\針のついた竹で二、三寸*7毎にピンと張られた|\ま/ま、何十本も干してあった。夜、その丸太|\【③387上】の先端に/フクロウが来て鳴くこともあったが、|\染物が干して/ない時は、私たち子供のかっこ|\うの遊び場で、毎日、/日が暮れるまで、いや|\日が暮れても、そこで遊んだ。/夕闇の中での|\コーモリ捕りは忘れられない。
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昭和10年 六歳 幼稚園
 隣家の染物屋の広い干し場のはずれに、大|\きいモ/ミジの木があり、その根方に、三つ、|\小さい墓があ/った。
 私たちの町名――女塚の由来は、もとオン|【②356上】\ナナナ/ツカ(女七塚*8で、新田義貞の弟義興|が、\例の歌舞/【①334上】伎で有名な、お舟頓兵衛矢口の|渡し\にあるように暗/殺された際、あとを慕っ|て死\んだ七人の侍女を、村/人が葬った塚がこ|の地\に分散して七基あり、故に女/七塚と称し|たと\いうことであった。
 紺屋の広場のはずれにあった墓はそのうち|\の三つ/で、その怨霊のたたりが今もあり、紺|\屋の先代が、/不慮の死をとげているのはまさ|\【③388上】しくそれだ、などと、/近所の噂であった。
 染物屋に娘がいて私より七つ八つ年上だっ|\たが、/私の相手をしてくれるので、よく遊び|\に行っている/うちに、ふとしたはずみで私は|\その家の窓から外に/落ち、右腕二カ所を骨折|\した。母はそれもたたりだ/ろうと言ったが、|\それが六歳の頃で、その後、小学/校の四、五|\年生*9の時分に、墓の上の大モミジに木登/りし|\ていて足をすべらせ、墜落した。さいわい墓|\石/をぎりぎりではずれていたので怪我はしな|\かったが、/落ちた時は尾骶骨を強打して口か|\ら泡を吹き医者に/かつぎこまれた。【②357上】 先日、蒲田へ行った折に、その墓の在り処|\へ行っ/てみたら、もう跡かたもなく家が建て|\こんでいたが、/路地の一角に、墓を撤去した|\あとの供養塔があった。/たたりを恐れる人が|\まだ居たのであろう。
 女塚という町名もいまはない。【①335上】


 新田義興(1331~1358.十.十)は「新田義貞の弟」ではなく次男(庶子)。「例の歌舞伎」は『神霊矢口渡』で、もともとは福内鬼外(平賀源内)作の浄瑠璃である。
 これがどの辺りであったかだが、「その十一 父の血篇」の①169頁(9.7×9.5cm)②181頁(9.2×8.9cm)③192頁(8.5×8.3cm)のそれぞれ版面上部の大半を占める手書きの「[わが家の近所の図]」により判明する。その北辺の北西角から1軒めに「小沢写真館/蒲田区女塚町4―13―7」があるブロックは、現在の東京都大田区西蒲田6丁目36番である。今は集合住宅等が建て込んでいるが、小沢氏の図では、東隣の「田中染物店」など道沿いの家々の内側に「原ッパ/トンボ、バッタ」と書き入れがあり、その「原」の上「トン」の右に中を白く抜いた墓の記号「⊥」があり、そこから線を引いて余白に「古いお墓が/ 三つあった。/ 近所にたたる」と書き入れている。(以下続稿)

*1:ルビ「こうや」

*2:ルビ②「わんきよく」③「わんきょく」。

*3:ルビ「せい」。

*4:現在、蒲田周辺に姫百合幼稚園は存在しない。

*5:ルビ「こうや」

*6:ルビ「かめ」。

*7:③読点半角。

*8:②括弧と括弧内の文字、やや小さい。③括弧半角。

*9:③読点半角。