・蒲田区道塚町への転居
『わた史発掘』の「その十二 道塚篇」の4節め、①単行本182~183頁2行め②文春文庫版194頁14行め~195頁15行め③岩波現代文庫版205頁12行め~206頁17行め「道塚の想い出は暗い」に、①182頁14~17行め・改行位置「/」②195頁8~11行め・改行位置「|」③206頁9~12行め・改行位置「\」、
私が中学に通うようになって間もなく、父は写真館を仲間の同業者に売りはらい、わが家\は、|おな/じ蒲田区内の道塚町へ引っ越した。
道塚はそれまでいた女塚とちがい、蒲田駅からだいぶ奥へ入っていたので、家屋の売買の\際の|差額/で、父はしばらく病気療養をしようと決心したらしい。
とあるように、小沢写真館を閉めて蒲田区道塚町に転居するまでである。
「中学に通うようになって間もなく」とあるが、小沢氏は昭和17年(1942)に麻布中学に入学している。「その二十三 年表篇」を見るに、①345頁上段19~20行め②370頁上段10~11行め③402頁上段10~11行め、
とあって、中学1年生のうちに転居したようだ。「その七 初恋篇」の最後の5節め、①111頁3行め~114頁9行め②120頁12行め~124頁3行め③123頁13行め~127頁14行め「発掘しない「わた史」」に、①112頁1行め②121頁11行め③124頁14~15行め、
中学一年の終りごろ、私の一家はそれまで住んでいた蒲田区女塚町から道塚町へ移ったか\ら、|‥‥
とあるから、昭和17年度の3学期、昭和18年(1943)になってからであろうか。
道塚町は現在の、道塚神社・大田区立道塚小学校のある大田区新蒲田3丁目の大半と、1丁目の西部・2丁目の南部、西に隣接する大田区多摩川2丁目の東部に当たる。昭和7年(1932)に東京市に編入され蒲田区となるまでは荏原郡矢口町で、距離にして1kmもない移転だけれども、国鉄東海道本線(京浜線)蒲田駅及び京浜電気鉄道蒲田駅の周辺に開けていた、同じく荏原郡蒲田町だった女塚(蒲田区女塚町)に比べれば、まだ開発途上の郊外であった。
なお「その十二 道塚篇」の最後の5節め、①183頁3行め~186頁11行め②195頁16行め~199頁6行め③207~210頁17行め「防空壕・外食券食堂」に、①183頁4~11行め②195頁17行め~196頁5行め③207頁2~9行め、
道塚へ出かけてみた。
雨がいまにも降りだしそうな暗い午後であった。
蒲田から目蒲線で一つ目の駅が道塚だったが、行ってみたらその駅はなくなっていた。道\塚と|【②195】いう/町名も改正されて西蒲田であった。
三十年ぶりに訪れた街の様相はここも御多分にもれず全く一変していて、八号環状道路が、\私|の想/い出を蹴散らかすかのように、旧道塚町を貫通していた。
長い信号を待って八環を渡り、むかし隣家で大地主だった多田さんの家を目当てに探すと、\思|った/より簡単に小沢宅旧地を尋ね当てることが出来た。
とあるが、これは正確ではない。旧道塚町で環状八号線(環八)に最も近接しているのは、現在の大田区新蒲田2丁目3番6号の金剛院で、全域が環八より南側である。実は道塚駅は道塚町ではなく蒲田区小林町にあったのである。すなわち環八の北側、現在の大田区東矢口3丁目27番で、地図を見るにその辺りから西北西方、現在の東急目蒲線(現・多摩川線)に掛けて、線路の痕跡が残っている。小沢氏は道塚駅が道塚町にあったと思い込んでいたので、環八が「旧道塚町を貫通していた」と書いてしまったのだろう。蒲田駅から東矢口・新蒲田までの地域が西蒲田になっている。
「小沢宅旧地」は道塚町の北辺であったらしい。「その十五 海軍兵学校前篇」の最後の6節め、①226頁19行め~228頁12行め②240頁13行め~242頁9行め③257頁7行め~259頁7行め「別 れ」に、①227頁7~8行め②241頁3~4行め③257頁16~17行め、
父は私の出発の日、病床から起きて洋服に着がえ、目蒲線の道塚駅まで、歩いて二分の道\だが|大儀/そうにして見送ってくれた。【③257】
とある。そのつもりで現在の地図を見るに、大田区新蒲田2丁目17番2号に多田ハイツ、20番3号に多田ビルがある。その辺りであったろうか。(以下続稿)