瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』(13)

・鈴ヶ森刑場
 ①文庫版②新書判③B6変型判とも、小塚原刑場について述べた箇所では、必ず鈴ヶ森に言及してあった。今回は③から遡る形で見て行こう。
 ③B6変型判『中』山手223~254頁「東海道に沿って」は6節から成り、244~247頁「日本考古学発祥の地,大森」の節は244頁4行め~「鈴ヶ森刑 場 跡 *1」245頁12行め~「大森貝塚 *2」246頁21行め~「大田区立 郷 土博物館 *3」の3項。
 244頁4行めの見出しには、もちろん電話番号の記載はない。そして3字分空けて赤の割書で「〈M▼P.224, 245〉品川区 南 大井2-5京浜急行立会川駅■7分*4」とある(は右向きで細い。は人が左を向いて歩いている姿に白く抜いて「徒歩」を示す)。前半5~18行めを抜いて置こう。

 立会川駅をでて東に向かうとすぐに,東海道にでる。立会川にか/かる橋は浜川橋である。鈴ヶ森刑場に向かう罪人がここで別れを告/げたことから,なみだ橋ともいう。ここから南に進むと,東海道と/第一京浜が合流する地点がある。ここが鈴ヶ森刑場跡(都旧跡)で,/日光道中の小 塚 原とともに江戸時代の仕置場であった。1651(慶安/4)年に設けられ,1695(元禄8)年の記録によると,間口40間(約72./7m)・奥行8間(約14.5m)の広さがあったという。江戸時代の刑罰/は厳しく,10両以上盗めば死刑であった。死刑は伝馬町の獄で執行/されたが,獄門の場合は獄内で打ち首のあと,鈴ヶ森に首を3日間/さらした(さらし首)。磔 ・火刑の場合は,江戸市中を引きまわし/のうえ,鈴ヶ森で執行した。刑場跡にたつ大 経 寺(日蓮宗)に残る/台石は,磔・火あぶりに用いられたものである。*5
 鈴ヶ森刑場は1870(明治3)年に廃止されるまで多くの罪人が処刑/された。初めて処刑が執行されたのは‥‥

 ②新書判『中』山手の3章め、55~86頁「東海道に沿って」も6節から成り、77頁11行め~80頁24行め「4 大   森」の節は、77頁12行め~「鈴ヶ森刑場跡*6」79頁8行め~「大 森 貝 塚*7」80頁5行め~「新井宿義民六人衆碑*8」の3項、「鈴ヶ森刑場跡」は③B6変型判『中』にほぼそのまま引き継がれている。これも前半を抜いて置こう。見出しの右2字分空けて割書「▼品川区南大井 2―5〈→[地]p.56,78〉▼京浜急行立会川駅下車10分*9」、そして13行め~78頁4行めに、

 立会川駅をでて東に向かい,旧東海道に出る。立会川にかかる橋/は浜川橋である。鈴ヶ森刑場に向かう罪人/がここでこの世に別れを告げたことから,/なみだ橋ともいう。さらに南にすすむと,/旧東海道第一京浜が合流する地点がある。/ここが鈴ヶ森刑場跡(都旧跡)で,日光道/中の小塚原とともに江戸時代のお仕置場で/あった。1695(元禄8)年の記録によると,/間口40間(約72m),奥行8間(約14m)の/広さがあったという。江戸時代の刑罰は厳/しく,10両以上盗めば死刑であった。単な/る死罪は伝馬町の獄で執行されたが,獄門/の場合は獄内で打ち首ののち,鈴ヶ森・小/塚原に首を3日間さらした(さらし首)。/磔 ・火刑(火あぶり)の場合は,江戸市中/*10【77】引き回し/のうえ,鈴ヶ森・小塚原で執行した。刑場跡に建つ大経寺*11/(日蓮宗)に残る/台石は火あぶり・磔に用いられたものである。1651/(慶安4)年に設置されてから,1870(明治3)年に廃止されるま/で多くの罪人が処刑された。その第1号は‥‥


 77頁の下部14行分の字数が少ないのは右側に「鈴ヶ森刑場題目碑」の写真があるからで、これは③B6変型判『中』では244頁左下(10行分)に、左側に建つ石柱と文化財の説明板とともに収めた写真「鈴ヶ森刑場跡」が掲載されている。
 ①文庫版『上』117~142頁「東 海 道」は119頁~「一 芝から高輪へ」123頁13行め~「二 品川宿付近」131頁~「三 大  森」138頁5行め~「四 羽田・六郷」の4節、②③では鈴ヶ森刑場跡を「大森」の節に含めていたが、本書では「二 品川宿付近」の最後、5項め(129頁9行め~130頁15行め)に「鈴ヶ森遺跡」として、まづ見出しの下、1字分空けて割書「▼品川区南大井二丁目五
―六 大経寺内/▼京浜急行大森海岸駅下車」とある。②③では最寄駅を「立会川駅」としているが、実は大森海岸駅の方が近い。129頁10行め~130頁2行め、

 旧東海道を南下して立会川をわたってゆく/と、大森海岸駅の北東で旧会堂が第一京浜国/道に合するところに鈴ヶ森遺跡(都旧跡)があ/る。これは一六五一(慶安四)年につくられた/刑場のあとで、この御仕置場は一六九五(元禄八)年検地では間口四〇間(七二メートル)、/奥行八間(一四メートル)あった(一八世紀末の大井村の「村方明細書上」写)。江戸時代、千住/*12【129】小塚原刑場とともに有名な御仕置場で、一八七〇(明治三)年に廃止されるまで、処刑されたもの/数多く、なかでも、‥‥*13

と、やはり小塚原刑場を持ち出している。129頁左上(8行分)は「鈴ヶ森題目供養碑」を大きく撮した写真を掲出。大経寺に残る「台石」については、②③と違って、処刑者や歌舞伎に触れた後、130頁8~9行めに言及されている。(以下続稿)

*1:ルビ「すず が もりけいじょうあと」。

*2:ルビ「おおもりかいづか」。

*3:ルビ「おお た く りつきょう ど はくぶつかん」。

*4:ルビ「しながわみなみおお い けいひんたちあいがわ」。

*5:ルビ「/はまかわ/// こ づかっぱら・ し おき ば ・けいあん/げんろく・けん//てん ま /ごくもん/はりつけ・ か けい/だいきょう じ ・にちれん 」。

*6:ルビ「すず が もり」。

*7:ルビ「おお もり かい づか」。

*8:ルビ「あら いじゆくぎ みん」。

*9:ルビ「たちあいがわ」。

*10:ルビ「/はまかわ/////こづかつぱら・ し おき ば // ま ぐち・おきゆき///てんまちよう・ごくもん///はりつけ」。

*11:ルビ「たいきようじ」。

*12:ルビ「たちあいがわ////お し おきば ///むらかためいさいかきあげ  うつし」。

*13:ルビ「こづかつぱら/」。