瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(185)

・叢書東北の声44『杉村顕道作品集 伊達政宗の手紙』(8)伊達政宗の手紙」
 さて、借り出した当日、駅や帰りの車中で土方正志「解説」や「底本一覧」を見ても各作品の執筆時期が説明されていなかったことから、その興味でまづ表題作を読み始めた。そして来週の初めには返却しないといけなくなったので、『彩雨の屑籠』所収の3篇を読んでから「新坊ちゃん伝」を読み、今「女学校物語」を読んでいて、返却までにこの5篇しか読めそうにない。最後の2篇を先に読んだのは、もちろん伝記的な興味からである。
・「伊達政宗の手紙」
 7頁(頁付なし)扉、8頁から本文で2段組、1段18行、1行22字。2行取り3字下げの漢数字で章分け、「一」8頁上段1行め「二」9頁上段11行め「三」11頁上段17行め「四」14頁上段13行め「五」18頁下段2行め「六」21頁下段14行め「七」25頁下段10行め「八」29頁下段12行め「九」33頁上段17行め「十」34頁下段8行め「十一」40頁下段16行め「十二」47頁上段3行め~48頁上段11行め。
 以下、年代判定の材料になりそうな点、誤植などの疑問点を挙げて行こう。
・8頁上段16行め~下段1行め、

 それは四月十九日の朝だった。
 山手の団地から下町に通勤する人達が、魔の吊/【上】り橋から遥か下の河原に、男の死体らしいものを/発見して、もよりの交番に通報した。


 これが事件の発端である。後述する理由から、私は昭和43年(1968)と考えている。以下、一応この年を基準にして設定を確認して行くこととしよう。
・8頁下段4行め「‥‥、/死体は五十がらみの、小柄な服装*1のいい紳士風で、/‥‥」、9~11行め、「‥‥、所持品から推して、市内/×通りに、産婦人科の医院を、つつましく経営する松波敬四郎医博であることが分明した。」
・10頁上段14~15行め、輪島小三郎刑事の畑中警部への説明の中に、

 年齢*2は大正十二年の生れですから、年寄りとい/うほどじゃありません。

とある。大正12年(1923)生で満44歳か45歳である。
・11頁上段2~3行め「フロー/レンス病院長の」4行め「椿沢五郎作白紙」が容疑者として浮上する。下段1~14行めにその人となりが説明されている。2行め「大正二年の生れ、旧一高から東大医学部」そして4行め「剣道練士六段、柔道四段、併せてボートの選手」6~9行め「その経営す/るフローレンス総合病院は、病床六百五十、従業/員二百五十名。施設の完璧さは東北六県に比肩*3す/るもののない大病院で、その徳望は曽*4参議院」議員選挙に担ぎ出されて1期務めたことがある。10行め「独逸語」が11行め「頗る達者らしい」。大正二年(1913)生で満54歳か55歳である。
・18頁下段3~17行め、「五」章の初めが「五月」すなわち「四」までは四月であった。そして19頁上段1行め「ついに六月に入った。」
・22頁上段8行め、松波博士の遺族は「未亡人と大学生の息子の二人暮し」息子は18歳か19歳と云う見当になろうか。
・22頁下段7行め「胡桃坂義彦」は、8~9行め「東京の××大学の教授で、世に名/高い歴史学者」で、松波博士が生前依頼していた伊達政宗の手紙の判読結果を23頁下段1~13行め、「五月二十九日」付の封書で知らせて来る。返事が遅れたのは26頁下段10行め「大学紛争にまき込まれて、暫くは政宗/の手紙どころの騒ぎではな」かったからである。大学にもよるが昭和43年(1968)か昭和44年(1969)辺りと云うことになりそうである。
・24頁下段3行め「そういうしている中に、六月も末になった。」
・24頁下段18行め~25頁上段2行め「例の、あなたも御存知の椿沢さん/の女秘書ね。あれ、草笛光子に似てるでしょう。/僕は好きなんだ。」――杉村氏は女優の名前を織り込むことが多いようだ。しかし草笛光子(1933.10.22生)では時期の判定の手懸かりにならない。
・事件の真相は19頁上段14~15行め「病院/の小使室」に住み込んでいる「常宿直の猪ノ上清作と云う老人」の長文の遺書(41頁下段9行め~46頁下段16行め)によって明かされている。7月のことであろう。この猪ノ上小使は、19頁上段2行め「×新聞の本荘記者」及び遺書によると、17~18行め「陸軍士官学校の卒業生/で、昔の少佐」だが、42頁上段1~2行め「徐州で負傷した時、椿沢軍医」に命を救われたが19頁上段18行め「戦傷でひどい跛*5」、下段3~4行め「戦後、零落し果てた」ところ「偶然、交通事故で/担ぎ込まれて来たのが、機縁で」フローレンス病院に住み込むことになっていた。徐州作戦は昭和13年(1938)4月7日に開始され、5月19日に徐州を陥落させている。
・47頁上段4~7行め「十二」章の冒頭、

 それから一年が過ぎた。
 仙台に、また、萌黄色の初夏が訪れていた。
 島中警部は二三の同僚に誘われて、市内の有名/な天然記念物指定の藤の花を見にいった。

とあって、この最後の章で伊達政宗の手紙の内容について、意外な真相が明かされる。――「初夏」そして「藤の花」の時期からして翌年5月である。
 私は本作の時期を昭和43年(1968)4月から昭和44年(1969)5月と見る。
 本作の末尾(48頁上段13行め)及び「底本一覧」には、前回見たように「※オール讀物新人賞最終候補作品」との註記がある。そこで川口則弘サイト「文学賞の世界」にて「オール讀物新人賞受賞作候補作一覧」を点検して見た。各回の「最終候補作」が示されているはずなのに、杉村氏の名前でも「伊達政宗の手紙」で検索してもヒットしない。この「オール讀物新人賞」は平成20年(2008)の第88回から「オール讀物推理小説新人賞」と統合されている、と云うので念のため「オール讀物推理小説新人賞受賞作候補作一覧」の方を見てみた。「杉村」ではやはりヒットしない。そこで「手紙」で検索すると、第9回の最終候補作5篇の中に「林 三寸 「伊達政宗の手紙」」があった。昭和45年(1970)4月30日締切で、「オール讀物」昭和45年9月号決定発表・選評掲載、選考委員は有馬頼義黒岩重吾高木彬光松本清張結城昌治で選考会は昭和45年7月3日、但し松本氏は欠席。受賞したのは久丸修(1938.2.11生)の「荒れた粒子」、久丸氏はこれがデビュー作で、以後何冊か推理小説を出している。
 すなわち小説内の時間を締切前に合せると、昭和43年(1968)4月から昭和44年(1969)5月と云うことになるのである。尤も、「十二」章を締切直後の昭和45年(1970)5月と見ることも出来よう。締切よりは後になるが受賞して9月号に発表されるとなれば、読者は最も近い昭和45年5月を連想するのではないか。そうすると、事件が発覚した「四月十九日」は昭和44年(1969)4月19日、土曜日だけれども当時は週休二日ではなくて土曜出勤(半ドン)が行われていたからおかしくはない。昭和43年(1968)4月19日は金曜日である。――それはともかく、受賞しなかったので当時発表されず、16年後の昭和61年(1986)に私家版、そして今年、執筆から51年にしてようやく公刊の運びとなった訳である。(以下続稿)

*1:ルビ「み な り」。

*2:ルビ「 と し 」

*3:ルビ「ひ け ん」。

*4:ルビ「かつ」。

*5:ルビ「ちんば」。