瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(186)

・叢書東北の声44『杉村顕道作品集 伊達政宗の手紙』(9)松尾芭蕉の手紙」①
 12月12日付(181)に引用した、杉村氏の次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」には、敗戦直後に刊行した小説本について「けれども、やはり筆で生活する夢はあったようです。」と述べている。しかしながら、いづれも版元は仙台の出版社であった。そして昭和37年(1962)に刊行した、『怪談十五夜』の増補改訂版と云うべき『彩雨亭鬼談 箱根から来た男』の版元も、やはり仙台の出版社である。
 もちろん、仙台で出版した本が切っ掛けとなって、専業ではなくとも作家と名を成すこともあり得たかも知れない。しかしながら、結局は紀田順一郎に注目されて「ウールの単衣を着た男」と「白鷺の東庵」が怪異小説の選集に収録されたまで、それ以上にはならなかった。叢書東北の声11『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』を読んだとき、正直『彩雨亭鬼談 箱根から来た男』は道楽として書いたようにしか思われなかった。過去、文筆を以て身を立てる志望のあった人間が、別の事業で社会的成功を収めて、もう職業としての文筆家と云う考えなしに気楽に書いた、ディレッタントの産物のように感じたのである。しかしそれは誤りで、次女の云う『新坊ちゃん傳』や『女學校物語』と同じ時期に出版した『怪談十五夜』と同材、重複しない話も似たような按配だから、60歳近くなって改めて気楽に、道楽として書いたと云う訳でもないのである。
 そのことを見落としていたことに気付かされたのが、今回本書を読んで、――杉村氏はむしろ60代70代になってから、本気で中央に進出しようとしていた、作家となろうとしていたのだ、と云うことが分かったのである。その証拠が「オール讀物推理小説新人賞最終候補作品」となった「伊達政宗の手紙」であり、そして「小説サンデー毎日新人賞最終候補作品」となった「松尾芭蕉の手紙」なのである。他の作品も「最終候補作品」とならなかっただけで、公募に出したものが少なからず含まれているのではないか。当時の新人賞公募に関する誌面を見ていけば、どこかに本書所収作が出ているかも知れない。
・「松尾芭蕉の手紙」
 本作には前回見たように「※小説サンデー毎日新人賞最終候補作品」との註記がある。これも川口則弘サイト「文学賞の世界」にて「小説サンデー毎日新人賞受賞作候補作一覧」を点検して見た。これもやはり杉村氏の名前で検索してもヒットしない。そこで「手紙」で検索すると、第6回の「推理小説部門」最終候補作5篇の中に「青木宗鯉 「松尾芭蕉の手紙」」があった。前後の回のデータからして昭和50年(1975)1月31日締切だったらしい。「推理小説部門」は受賞作なし、「時代小説部門」も受賞作なしだが最終候補作5篇のうち2篇が「佳作」となっている(掲載はされなかった)。「小説サンデー毎日」昭和50年7月号選評掲載、「推理小説部門」の選考委員は黒岩重吾陳舜臣中島河太郎
 「伊達政宗の手紙」と違って、こちらは偽簡を巡る騒動を、関係者がかなり経ってから俳文学に関心を持つ人々の何らかの集まりの折に語る、と云う結構になっている。全文がですます調(敬体)の語りである。
 どのくらい後かと云うと、冒頭50頁上段1~2行め、

 斎藤耕太郎博士ご夫妻が亡くなりましてから、/早いもので、今年でもう二十五年になります。

とあって、その「二十五年」前と云うのは、本題に入ったところの冒頭、50頁上段15行めに、

 あれは三十五年の春のことでございました。

とあるから昭和35年(1960)、25年後の昭和60年(1985)に語ったことになっている訳である。――昭和50年(1975)1月締切の新人賞応募作品だから「十五年」だったのを、昭和61年(1986)に『彩雨の屑籠』収録に際して「二十五年」に改めたのであろう。この他にも手を入れたところがあるかも知れないが、一応これを昭和50年(1975)の「小説サンデー毎日新人賞最終候補作品」の積もりで検討して行くこととする。(以下続稿)