瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(180)

・杉村顕道の家系(7)
 叢書東北の声44『杉村顕道作品集 伊達政宗の手紙』488頁下段~492頁「付「金田一京助 杉村顕道未刊行和訳唐詩選序文」について」は、12月9日付(178)に引いたように「カメイ記念展示館」での杉村惇回顧展に際して設けられた「顕道コーナー」のための資料調査で発見された、杉村氏の國學院での恩師・金田一京助(1882.5.5~1971.11.14)から送られた杉村氏の未刊行著作のための序文を翻刻したもの(493頁上段10行め~492頁下段8行め)で、「杉並/32.6.26/■ 0-6」付消印のある封書と400字詰原稿用紙の原文冒頭の写真が492頁下段左(10行分)にある*1。文中、491頁下段10~12行め「・・・・。令兄の故杉村/幹氏と私とは㐧二高等学校時代の文芸部委員時代の僚/友で、平素その才藻を熟知していたから、・・・・」とあるが、金田一氏は明治34年(1901)9月に仙台の第二高等学校に入学、明治37年(1904)9月に東京帝国大学に入学している。そうすると2019年9月29日付(128)に引いた、田中貢太郎の怪談集に見える「これは鶴岡市の杉村幹君の話である。杉村君は明治四十四年、仙台の第二高等学校へ入学したが、・・・・」と書き出している話は、入学の年を10年誤っていることになる。2019年10月1日付(130)に引いた『人事興信録』第一版に拠れば、杉村氏の長兄杉村幹は明治14年(1881)1月生、確かに明治44年(1911)では、当時とは云え高等学校入学には遅過ぎる。
 なお「カメイ記念展示館」は仙台市に本社を置く総合商社カメイ株式会社の創業90周年を記念して設立された財団法人(現:公益財団法人)カメイ社会教育振興財団が平成6年(1994)9月7日に開館、平成23年(2011)11月に「カメイ美術館」と名称変更して現在に至っている。
 この「顕道コーナー」に展示された(のと恐らく同じ)各界著名人の書簡は来月、仙台文学館に展示されることになっている。


 それはともかくとして、前回引用したような次第で、新刊だけれども叢書東北の声44『杉村顕道作品集 伊達政宗の手紙』の「解説」は、最新の状況を反映している訳ではないのである。
 「一 杉村顕道追跡」は荒蝦夷代表の土方正志が杉村顕道の作品を知り、やがて復刊を志し、遺族と連絡が付いて叢書東北の声11『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』を刊行、その反応について。「二 サハリンから仙台へ」は父・杉村正謙(1854~1924)の経歴から始めて、顕道の生い立ちから教師として長野・樺太・仙台・大曲と各地を転々とし、昭和29年(1954)に仙台で病院を設立するまで。「三 病院経営者として、郷土作家として」は仙台での文化活動や、山形県庄内との関わり、母方の祖父とその子孫との交遊、そして怪談について。「二」と「三」は当ブログでも度々参照している『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』に収録される、杉村氏の次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」に基づいて、時に談話をそのまま引用しつつ、綴られている。――従って、修正が必要な箇所は「父・顕道を語る」について指摘したのと同じようなところになるのだが、念のため、確認して置こう。480頁上段8行め~下段8行め、

・・・・。一九三〇/年、顕道は長野市の長野商業学校(現長野県長野/商業高等学校)に国語漢文教師として赴任する。
 破天荒な熱血教師だったらしいのは、戦後に発/表した自伝的小説『新 坊ちゃん伝』にもうかが/える。一九三三年、この長野で顕道は初の著書を/上梓する。『信州の口碑と伝説』である。下宿の/おばあちゃんに昔話をたくさん聞いた。ところが/学校で生徒たちに「こんな話を知っているか」と/問うても誰も知らない。口碑が豊かに残っている/のにそれが次代の子どもたちに伝わっていないの/【上】が残念で、この本を著した……と、前書きにある。
 続いて『信州百物語 信濃怪奇伝説集』を刊行。/こちらには口碑伝説だけでなく、のちの怪談の萌/芽ともいえる創作も含まれているが、いずれにし/てもこの二書には師・折口信夫民俗学の影響が/認められる。顕道はこのあとも各地を転々としな/がら、各地の民俗学的な逸話を折口に手紙で知ら/せていた。


 この辺りは、ほぼ「父・顕道を語る」の、2019年8月23日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(02)」に引いた辺りに拠っているが、異なるのは『信州百物語』には「のちの怪談の萌芽ともいえる創作も含まれている」としていることである。『信州百物語』の内容については、近くは12月6日付(177)にも見たところだが、どうも、土方氏は「蓮華温泉の怪話」を(岡本綺堂「木曾の旅人」に基づく)「創作」と見ているようだ。しかしながらこれについては、東雅夫による初出「深夜の客」発掘を経て、当ブログにて青木純二『山の傳説 日本アルプス』を見出したことで、「木曾の旅人」を怪談実話に改作したのは当時東京朝日新聞高田支局の記者だった青木純二であったことを確認している。杉村氏は樺太で執筆した『信州百物語』全54話のうち『山の傳説』から12話を抜き出しているのだが、そのまま引き写したのではなくて、原話の煩い枝葉を剪定して簡潔に纏め直したようなものもあれば、「蓮華温泉の怪話」のように、台詞などを書き換えた「再話」と呼ぶべきものもある。しかしながら、程度の問題はともかく『山の傳説』以外の典拠の使用状況からして『信州百物語』は先行する『信州の口碑と傳説』とともに「創作」ではなくて、編纂物として捉えるべきものと考える。――「三」にも、486頁上段9~17行め、

 さて、その〈顕道怪談〉だが、顕道の怪談作品/としては戦前の『信州百物語 信濃怪奇伝説集』/と戦後の『怪談十五夜』『彩雨亭鬼談 箱根から/来た男』の三冊が挙げられる。これら全作品に若/干を加えて「全集」としたのが私たち〈荒蝦夷〉/の『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』である。青/年時代を過ごした東京を、教師として暮らした長/野を、戦後の活躍の場である仙台を舞台とした作/品が、あるいは・・・・

とあるのだが、確かに『信州百物語』或いは『信濃怪奇伝説集』と云う標題、そして2019年9月6日付(109)に見た『信州の口碑と傳説』巻末の広告からすると、これを「創作」寄りに捉えたくなってしまう。しかし、実態は2019年9月6日付(109)からしばらく検討したように、『信州の口碑と傳説』と同種の、ほぼ純然たる伝説集で、創作「作品」は含まれておらずせいぜい「再話」と云ったところである。
 戦後の『怪談十五夜』に『信州の口碑と傳説』に収録した話を膨らませた2篇があることからも窺われるように、『信州百物語』及び『信州の口碑と傳説』を纏めたことが後年の怪異小説執筆に繋がっていることは確かである。しかしながら、はっきり小説の体で書かれている『怪談十五夜』及び『彩雨亭鬼談 箱根から来た男』とは、別種の著作として『信州百物語』は扱うべきであろう。(以下続稿)

*1:「■」の文字は読めなかった。なお原文末(492頁下段8行め)には「昭和三十二年四月・・・・十一日」とあるので、2ヶ月半後に発送されたことになる。