瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

鑓水の地名(6)

・八王子市老人クラブ連合会創立50周年記念誌『八王子・昭和の語り部』(2)
 小泉茂「鑓水の地名の起こり」の続きで最後の4段落め(116頁右4~10行め)、

 古くは裏山から湧き水を引き込んだ家が多か/ったが、今は水道の普及により、ただ一個所だ/け、都文化財・小泉屋敷にこの形を見るのみで/ある。また、一説には、道了堂の境内に白い清/水が湧き出していて、そこで八王子城の落武者/が槍を研いだので、鑓水の語源の言い伝えはあ/るが、これはあまり信憑性*1はない。


 最後の一文がこなれないが、字数は600字ないので編集委員会で調整した結果ではないらしい。しかし冒頭部に「地元にも伝えはなく」と言いながら「言い伝えはある」は少々奇妙である。――要するに「信憑性はない」つまり由緒正しき「伝え」と思っていないので、このような書き方になったもののようである。
 この「伝え」自体は小泉茂(1923?生)が物心付いた頃にはあったはずで、10月26日付(4)に引いた地方文化叢書1『思い出の鑓水』に、小泉茂の一回り半上の、昭和初年に鑓水を離れたらしい小泉二三(1906生)がこの話の存在を記録している。小泉茂もこの話を幼い頃から知っていたのであろう。
 しかしながら「道了堂の境内に」と書いているところからして、小泉茂はこの「白い清水」を見ていないようである。小泉二三のように徒歩で、道了堂・鑓水峠を越えて八王子まで5年間通学したのならともかく、小泉茂の世代は八王子に出るのにそのような行き方をしなかったため、道了堂には余り縁がなかったらしい。
 鑓水を通って八王子に通じるバスがいつから運行していたか、確認していないが、同じ板木谷戸の小泉本家の、小泉栄一(1917生)の著書、かたくら書店新書37『絹の道 やり水に生きてを見るに、43~46頁5行め「ようらん社で思うこと」に、参考になる記述がある。43頁8~11行め、

 小学生の頃より本が好きであった私は、バスに乗って八王子の町に出かけて、本/屋を見て歩くのが何よりの楽しみであった。そしてようらん社は、バスから降りて/いの一番に飛び込む店であった。そこのご主人が後年ご厄介になる橋本義夫先生で/あることなどは、夢にも知らないで……。【43】


 44頁8行め「十二、三才の子供のくせに」とあるが、橋本義夫が八王子市横山町に揺籃社を開業したのは昭和3年(1928)なので、その2年程後のことになる。その、44頁2行め「八王子の町に行くことすら年に数える程しか」の交通手段がバスであった訳である。そのルートであるが、最後の段落の回想に見えている。45頁9行め~46頁4行め、

‥‥。調べてみれば解るがたしか十七才頃であった。幼児用高級絵本にコド/モのクニという大きい月刊誌があった。その六月号に私の童謡が特選になり、その/選者が西条八十であった。その後、二、三度臘人形という同人誌から入会勧誘のハ/ガキを貰ったりしたものであった。それから一年位すぎた頃、多摩の詩人の座談会/がようらん社の二階であるからとの通知をもらった。私は当日そのハガキをふとこ/【45】ろに、ようらん社の前を言ったり来たりしてその二階の窓を見上げ、出席して見よ/うかと思案にくれたことを思い出す。結局帰りのバスがなくなると困るという理由/で中断して、例により二十銭か三十銭の改造文庫を買って御殿峠をバスにゆられて/帰宅したものである。‥‥


 小泉榮一「お山のお醫者さま」が「特選童謠」として掲載されたのは「コドモノクニ」の昭和8年(1933)6月号で、確かに小泉栄一が満17歳のことである。
 「蠟人形」は西條八十(1892.1.15~1970.8.12)が昭和5年(1930)に創刊した詩誌で昭和19年(1944)休刊まで163号刊行されている。
 それはともかく、この記述により昭和初年には八王子から御殿峠を越えて橋本方面に通じるバスが運行されていたことが分かる。しかし村域の外れ、鑓水を僅かに掠めて通るだけであるためか、『私たちの郷土由木村』の「㈢ 村  の  歴  史  資  料」38頁上段15行め~下段15行め「資料五十三 バ ス 開 通」には、この路線について触れるところがない。
 そんな訳で、小泉茂は道了堂・鑓水峠を越えて八王子に行くようなことがなく、かつ、いづれ引用して検討することになると思うが、小泉栄一や辺見じゅんの著書にあるように、鑓水の住民と道了堂の堂守・浅井としの間には懸隔があったため、そもそも道了堂に行ったことが余りなく、小泉二三のように「槍研ぎ水」を実見することもなかったようなである。
 小泉二三は誰の槍かを書いていなかったが『私たちの郷土由木村』には「戦国時代」の「小山太郎」とあり、そして小泉茂は「八王子城の落武者」としている。確かにそんな「信憑性」のある説とは思われないが、この辺りはもう少し材料を揃えてから検討することとしたい。
 なお、『絹の道 やり水に生きての裏表紙にある写真が、都文化財・小泉家屋敷にのみ残存する「呼び水」の実物のようである。(以下続稿)

*1:ルビ「しんぴょうせい」。