小倉英明『私たちの郷土由木村』の「白水」は、鑓水の地名由来伝説らしいのですけれども、それとはっきり書いてある訳ではありません。
私の見たうちで、これを地名の由来に結び付けたのは10月18日付「小泉二三『思い出の鑓水』(1)」に内容を確認した地方文化叢書1『思い出の鑓水』の、31頁「槍研ぎ水」です。下段1~12行め、
鑓水の語源とも思われる槍研ぎ水は道ろ様の後に/あったが宅地造成であとかたもない。
夏の日照りの時でも冬の寒い時でも凍らずにいつ/も白い水が二坪位のところに池になっていて槍を研/いだところと云う。すぐそばに大人が二人でかゝえ/る様な松の木が三本あり斜めに倒れる様な格子でそ/びえていた。片倉城を攻める時の物見に使ったとも/云われている。伝説であるらしい。実際は長沼にあ/った煉瓦工場の土取り場所のあと地らしい、こんな/事をのべると折角の事にと村の人たちに叱られるか/も知れないがどうも本当の事はどの辺にあるのか分/らない。
本書には誤植が少なくないのですがここでも「道了様」を「道ろ様」と誤植しております。
それはともかく、私は本書を見るまで「道了堂の泉」は、現存しないだけでなく、過去にも存在しなかったのではないか、すなわち地名由来伝説のためにでっち上げられた、それこそ伝説的な存在なのではないか、と考えておりました。
しかし本書には、他書にはない「槍研ぎ水」の具体的な描写があります。10月20日付「小泉二三『思い出の鑓水』(3)」に見たように、小泉氏は昭和初年には鑓水を離れたらしいのでそれ以前、10月22日付「道了堂(108)」に見たように満12歳から17歳まで、大正8年(1919)から大正13年(1924)の5年間、道了堂のある大塚山・鑓水峠を越えて八王子の東京府立織染学校に通っていましたから、ほぼこの期間の実見に基づいていると見て良いでしょう。そしてこの頃既に「槍・水」伝説が存在していたことも、察せられるのです。
10月24日付(2)に、この「白水」もしくは「とぎ水」或いは「槍研ぎ水」の記載が明治26年(1893)の石版画「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」にないことに注意して置きましたが、場所が「道了様の後」の「宅地造成」の範囲内にあって、大塚山の陰に隠れていたからだと、一応は考えられそうです。
しかし、小泉氏はここで「実際は」として、「村の人たちに叱られるかも知れない」説を持ち出します。この説の通りだとすると「槍研ぎ水」は明治26年には存在しなかったことになるのです。
すなわち、この「長沼にあった煉瓦工場」については10月21日付「小泉二三『思い出の鑓水』(4)」に参照した「三井住友信託銀行グループ 三井住友トラスト不動産」HPの「写真でひもとく街のなりたち/このまちアーカイブス」の「八王子」の「3:明治期の八王子」の3節め「鉄道の延伸と煉瓦工場」に、
「八王子駅」以西の官設鉄道工事において、当時新しい建材であった煉瓦の需要を見越し「八王子煉瓦製造会社」が設立され、1897(明治30)年に由井村西長沼(現・八王子市長沼町)の工場が操業を開始した。工場から甲武鉄道までは引込線が引かれ燃料や煉瓦が運ばれたほか、工場南側の「多摩丘陵」の一画で採取された原料となる粘土はトロッコで運ばれた。1907(明治40)年に横浜の「関東煉瓦」に売却、さらに1912(明治45)年「大阪窯業」に買収され、同社の「八王子工場」となった。1923(大正12)年の「関東大震災」以降は耐震性の低い煉瓦に代わりコンクリート建築が主流となり、この工場では「甲州街道」の歩道部分などで使用された舗道煉瓦の製造に切り替えられたが、1932(昭和7)年の火災により閉鎖となった。
と説明されております。
そうすると、――道了堂の裏手でも粘土が見付かり試掘して見たものの、直線距離で2km余、高低差120mある道了堂の辺りから運ぶよりももっと近くでの採掘で足りたので、そのまま放置されることとなったのでしょう。粘土層ですから水が溜まったままになっていて、粘土の溶けた、白い水だったのでしょう。
それが何か由緒ありげに思われて、不浄の物を洗ったために清水が濁ってしまったと云う、各地に存する伝承といつしか結び付いて誕生したのが「槍研ぎ水」伝説なのかも知れません。とにかく、明治期かそれ以前の文献に見付からないことには、昭和30年代に出来たらしい東京環状線(国道16号線)脇の池が「槍・水」の伝説地になってしまったのと同様、伝説と云うものは実際にはそんなに古いものではなくて、何か曰くありげな場所にはいつの間にかそれらしい説明が附会されてしまう、その実例である可能性が高い*1、と云わざるを得ないと思うのです。(以下続稿)
*1:或いはここに、青木純二が捏造したとされる「恋マリモ伝説」等を加えても良いでしょう。