瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(70)

・かたくら書店新書20『絹の道』(4)
 佐藤広「絹の道とは何か/――道了堂を歩いて――」の詳しい内容は、かたくら書店新書45『浜街道の「第2部 歩いてみよう「絹の道」」の「3 大塚山公園――道了堂のあと」と(4月27日付(46)に予告したように)新旧対照させながら確認することにして、本題の、本書刊行当時(と云うか、刊行直前に)道了堂がどうなっていたかについて、本書の記述を見て置こう。
 結論から言うと、本書には道了堂の状態について、詳しい記述はない。頭から順に拾って置こう。まづ佐藤氏の文章では、次の記述があるのみである。
・12頁8~9行め「 さて、朽ちはてて倒壊寸前のような堂の右を抜けて奥に行ってみる/と、‥‥」
 続く15~20頁「二、絹の道と多摩の伝統工芸」、21~28頁「三、絹の道と困民党」の章は、そもそも道了堂とは無関係である。
 29~49頁「四、絹の道の保存について」は、31頁にまた「四、絹の道の保存について―八王子市議会議事録から―」尾崎正道(郷土資料館運営協議会委員)の扉があって、32~48頁に議事録の抄録がある。日付がない(!)が、49頁に「3/29 アサヒ」との書き込みのある新聞記事「「絹の道」が戻ってくる/八王子市がマスタープラン/61年度から買収計画/豆砂利の道や資料館を建設」の複写が掲載されていて、下に「3月28日の尾崎正道議員が波多野市長に質問した翌日の朝日新聞の記事  」とあるから昭和60年度末の昭和61年(1986)3月、内容を読むに27日と28日の議事録であるらしいことが分かる。この中の「〇30番(尾崎正道君)」の発言に答えた「〇社会教育部長(田中義一君)」の発言に、大塚山の保存・買収について何度も言及されている。
 まづ尾崎議員の質問に、35頁1~2行め「‥‥、生糸商人の守り神として信仰された大塚山/や異人館の史跡など、‥‥」との言及があり、これに答えた田中社会教育部長の答えには、
・38頁5~6行め「 それから、鑓水商人の屋敷跡と、大塚山、これは市が早急に公有化/をしていかなければいけないだろうという考え方。」
・38頁11~12行め「 それと絹の道に関しては、道路以外が市の財産になっておりません/ので、すべてが民有地という形になっておりますので、‥‥」
・39頁2~5行め「‥‥、史跡絹の道を軸と/して他の文化財である、都が指定をしてございます民俗資料の小泉/屋敷跡とか、あるいは鑓水商人の屋敷跡とか、大塚山とか、こういうも/のを有機的に結びつけながら、‥‥」
・39頁12~13行め「 それから、大塚山山頂は、現状の自然を生かしながら豊かな樹林と/眺望を活用する公園的な整備をすべきであると。」
・40頁8~11行め「‥‥、六十一年度には鑓水商人の屋敷跡の跡地を買収するということ。そして六十二年度には大塚山の買収をしながら、商人屋敷/跡の整備をし、六十三年度には大塚山全体を整備して、全体的な観光の資源と、文化財の保存というものをあわせ考えていこうと、‥‥」
 「小泉家屋敷」を「小泉屋敷跡」、「屋敷跡の跡地」など少々奇妙であるが、それはともかく、この40頁までで日付が変わって、41頁から翌日になっている。
 尾崎議員が「昨日」の答弁を纏めて、41頁12行め~42頁3行め「‥‥。その中で買収も六十一年、あるいは六/十三年にかけて鑓水商人の屋敷跡などを初め、大塚山等を中心に全/【41】体的な整備を図るなどの説明がされたわけですが、きのう遅くなった/ということもあったんですけれども、もう少し丁寧に説明を願いたい/わけです。」と質問し、やはり田中社会教育部長が細部について答えた、最後近く、48頁1~3行め「‥‥。さらに六十二年には、大塚山の買収をしたいとい/うことで、この地域は六、五八一平米あるだろうと、合わせて一億八、/六〇〇万円ほどを見込んでいる、こういう形でございまして、‥‥」とある。
 この遣り取りで注意されるのは「大塚山」と呼んで道了堂についてはどうともしていないところで、しかしこれを受けた29日の朝日新聞の記事には、4段め1~7行め、

‥‥この地区に/は、絹糸商人「八木下要右エ/門」の屋敷跡や長さ六十六㍍も/の石垣などが残る。「鑓水商/人」が浅草から移したと伝えら/れる商売の神様「道了堂」や商/人像を刻んだ道標もある。

と道了堂の名が見える。長さ66mの石垣は「石垣大尽」と称された八木下要右衛門家の屋敷跡の石垣なので別々に存するかのように書くのは変だし道了堂が「商売の神様」と云うのは尾崎議員の質問に「生糸商人の守り神」とあったのを承けてのことだろうけれども意味合いが違っているように思われる。5段め5~9行めにも、

 八王子市は四十七年、この地/区の「絹の道」のうち鑓水公会/堂前から道了堂のある大塚山/(二一三㍍)の山頂までの一・/五㌔を史跡に指定した。‥‥

とある。――この、議事録が大塚山一辺倒であるのに対し、新聞記事の方はむしろ道了堂の方を主としていることの意味については、次回、残りの章の記述の抜書きを済ませた上で、私の見当を述べることとしよう。(以下続稿)