瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(109)

・東京都八王子市『ふるさと八王子』
 昭和55年(1980)1月刊行の本書にももちろん「道了堂」の文字は複数見える。但し、余り具体的な記述がある訳でもないので、敢えて取り上げないで置こうと思っていた。しかしながら、別の項目で取り上げてみたいと思ったところがあったので、どのような書物なのか確認するために11月1日付「東京都八王子市『ふるさと八王子』(1)からしばらく細目を眺めて見たのである。
 通覧して見るに、道了堂の記述は確かに少ない。しかし大した記述のない本も取り上げて来たから、ここでは鑓水に関係する記述と併せて抜き出して置こうと思うのである。
 1章め「ふるさと八王子」【37】「絹の道」は昭和49年8月1日発行の八王子市の広報に掲載されたもので、80頁上の写真は「絹の道」碑を西側やや離れた路上から写したものらしい。冒頭の一文を抜いて置こう。80頁下段1~3行め、

 国鉄片倉駅の南から、大塚山を経て由木の/鑓水、さらに都道を横切って、町田市小山に/ぬける道を、絹の道と呼んでいる。


 そして歴史的意義を述べ、81頁上段3~12行め、

 いまではすっかり廃墟*1となった大塚山の道/了堂のすぐ下に、当時の繁栄をしのぶ「絹の/道」と刻まれた石碑がひっそりとたっており、/ここから鑓水にぬけるあたりは、両側に雑草/がおおいかぶさるように茂っている。
 また、この道沿いには生糸取引きの商いが/おこなわれたと思われる異人館跡や、生糸商/人の屋敷跡の石垣、八王子道の道標など、幕/末の歴史をしのばせるものが数多く残ってい/る。


 81頁下段左7行分の絵地図は「都道」の「倉庫前」バス停からの「絹の道」で「庚申塚」の分岐を右に登ったところに「石碑」とその先に「道了堂」の堂宇が描かれ、その左上に「東急片倉台」右上に「西武北野台」の文字がある。
 81頁下段右はまづ2行取り5字分の枠に[いま]として、本書刊行直前の状況を8行、追記している。

 倉庫前のバス停からしばらく歩/くと、生糸商人屋敷跡の石垣や道/標などが目につく。道はやがて細く、静かな/山道になるが、路面にはわだちの跡が深い。/木立の中からは道の東側一帯にかけて造成中/の宅地が見えかくれする。絹の道の碑から道/了堂へと上がると、すぐ北側まで宅地造成の/波が押しよせている。


 【42】「八日ぞう」は90頁上段に目籠に手を伸ばす小泉栄一の写真、91頁下段の絵地図は「倉庫前」と「鑓水」の2つのバス停を中心に、「都道」は「国道16号/←」と「下柚木へ/→」そして2つのバス停の間を北へ行く道に「 ↑ 道了堂へ」、鑓水バス停の少し東から南下する「 ↓ /町田へ」の道の途中に「⬅小泉栄一/さん宅」がある。他に南西に「・多摩美大」が記載されている。
 2章め「文化財みてあるき」【6】「鑓水の小泉屋敷」の107頁下段の絵地図はこれをやや詳しく、大きくしたもので「⬅小泉屋敷」と示され、また西に「国道16号」が南北に通じ北端に「 ↑ 八王子市街へ」南端に「 ↓ 橋本へ」また道了堂へ向かう道に「絹の道」と添えてある。
 3章め「東西南北」【5】「幻の鑓水停車場」の159頁下段左下の地図も似たような範囲だが小泉屋敷は範囲外、バス停の記載は「倉庫前」のみ、そしてその辺りから北に「道了堂」まで続く「絹の道」の途中の分岐に「×庚申塚」があって「 ⬆ ここの道標に/停車場の名が」と註記。本文、158頁下段1~6行め、まづ絹の道について略述し、次いで7~11行め、

 ところで、道了堂へ向かう途中、三基並ぶ/供養塔の裏手をのぞくと、小さな石の道標が/置かれている。その一面には『此方鑓水停車/場』とある。鉄道もないこの土地に停車場と/は、一体どういうことなのだろうか。

と絵地図に対応する説明がある。とにかく地理的な指標として「道了堂」を機能させていることが窺える。
 本書には他にも当ブログの記事に関連する箇条が幾つかあるが、これは当該記事に追記することとしよう。(以下続稿)

*1:ルビ「きよ」。