瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『稲川淳二のすご~く恐い話』(6)

 昨日の最後に取り上げた、「中山市朗ブログ」の2009年04月15日「マスコミについて」に、稲川氏が『新耳袋』と共通の話をライブで語り、書籍にも載せていることについて「‥‥。で、あの人はライブで話したことを本にする(ゴーストライターが、ですけど)んです。その中に、『新耳袋』(扶桑社版を私が手渡しています)からの話があったので、ライブだけだったらよかったのですが、‥‥」と述べているのであるが、本書『稲川淳二のすご~く恐い話(PARTⅠ)』には「Nクン」が何度も登場するのである。これを読むと稲川氏は「Nクン」と随分親しくしていて、直接、話を提供してもらったように読める。それから、中山氏は「ライブだけ」なら問題にならなかったが「コミック化」したため、初めて問題になったかのように書いているが、本書は稲川氏が怪談ナイトを始めて間もなくで『新耳袋』から4年か5年しか経っていないのである*1
 リイド社は漫画家さいとう・たかを(1936.11.3~2021.9.24)のさいとう・プロダクションの出版事業部が独立して設立されたので、本シリーズも『PARTⅢ』が出た頃、1997年から「SPコミックス」レーベルで漫画化している。
 1990年に刊行された扶桑社版『新耳袋』全1巻は、一部では評価されたものの、その後、稲川氏が同じ話を語り、本にも載せ、コミック化もされ始めた1998年に、メディアファクトリー版全10巻の『新耳袋』の『第一夜』として扶桑社版が復刊されると、稲川氏が語り、本に載せた段階では問題になっていなかった盗作問題が、『新耳袋』側が盗った、と云う構図で一般には認識され、クローズアップされ始めた、と云うことのようだ。尤も、中山氏が気付いたのはリイド社のコミックスではなく、当時(2002年5月)刊行中だった竹書房文庫『稲川淳二の恐怖がたり』シリーズのようだ。これもやや遅れてバンブー・コミックス(竹書房)で9冊ほど出ている。
 昨日取り上げた「ミドルエッジ」の「稲川淳二の怪談盗作問題は平成のうちに解決するのだろうか。」に引用されている、木原浩勝「別冊・怪談ラヂオ」第45回「初めてすべてを語る!稲川淳二盗作問題⑪」要旨には「1995年に、リイド社からの稲川著作で初めて無断使用掲載される。」とある。すなわち、中山氏と違って木原氏は、コミック化の版元でもあるリイド社の『稲川淳二のすご~く恐い話』の『PARTⅠ』が、そもそもの始まりだと云うのである。
 しかし『新耳袋』の内容を殆ど記憶していない私には、どの話が『新耳袋』由来なのか分からない。従ってここでは、明らかに中山氏のことと察せられる「Nクン」の登場する『PARTⅠ』の記述を、抜き出して置くこととする。『PARTⅡ』と『PARTⅢ』には「Nクン」は登場しなかったと(精読していないが)記憶する。
・第8話「フィルムに映った恐怖」
 冒頭、46頁3~4行めに、

 僕の知人の作家に、Nクンという男がいるんですが、大学時代に、映画研究部にいたことが/あるんですよ。

とある。続く話の本題、Nクンはこのフィルムの撮影に関わっていないように読める。見たことがあるのかどうかも、よく分からない。最後、50頁2行めに、

 「テープ閉めたまんま、今、大学にあります」って、彼、言うんです。

とコメントしている「彼」は「Nクン」であろう。これでは多摩美術大学の卒業制作と云うことになっていた、焼身(&投身)ビデオの類話みたいになって来る。
・第10話「とりついた家」
 冒頭、55頁3~4行め、

 前に、登場してもらった作家のNくんという男がいるんですが、これはまだ、Nクンが、小/さい頃に、N一家の体験した話でしてね。


 これも最後、63頁3~4行め、

 「稲川さん。後になって、そん時の騒ぎを思い出して、聞いてみたら、おふくろも、姉もよ/く覚えてて、話してくれたんですよ。あるもんですねえ」と、Nクンは、言っていました。

と、Nクン本人のコメントで締め括っている。
・第14話「先輩のハト」
 冒頭、81頁3~4行め、

 何度か、この話に登場を願っている、作家のNクンは、大阪の大学を卒業してるんですが、/家から大学が離れていたので、初めて、アパートで暮らすことになったそうです。

と「Nクン」本人の体験談なのである。この話についてはHN「まさと」のブログ「ホットケーキミックス」の2019-01-19「稲川淳二盗作疑惑について知るところ」がやや詳しい*2。当人たちは問題にしていなかったのに「噂の真相」が騒ぎ立て、ワイドショーが決裂させた、と云う理解のようだが、やや稲川氏寄りの解釈のように感じられる。と云うのは、「まさと」氏は合意書を取り交わした後に同様の事例が相次ぎ、再交渉しようとしたら逃げてしまった、と云った辺りのことをワイドショーの後に置いている。これだと、外野が決定的に関係を悪化させたから、稲川氏としても交渉しづらくなった、と云うことになる。しかしながら「中山市朗ブログ」では稲川氏が再交渉に応じようとしないでいるうちに、ワイドショーで稲川氏側の言い分が一方的に垂れ流された、と云う順序になっている。いや、稲川氏が主導的に動いたのではないにしても、ワイドショーを利用して自らの言い分を垂れ流して逃げを打った、と云う点は変わりないように思うのだが、どうだろう*3
 ここで注意されるのは、「まさと」氏が「この件に関し、「新耳袋」のもう一人の著者である木原浩勝の意見は、寡聞にして知らない。」と述べていることである。木原氏は「まさと」氏の記事投稿の半年ほど前に「別冊・怪談ラヂオ」で取り上げ、Twitter でも「#稲川淳二盗作問題」のタグで話題にしていたのに、気付いていないらしい。そこからリンク先の「ミドルエッジ」の記事に飛べば、木原氏・中山氏と稲川氏の関係が、外野が煽ったから拗れたと云った生易しいものではないことは直ちに分かったであろう。
 いや、私は「まさと」氏を批判したいのではない。稲川氏のファンがこの問題をどのように理解しようとしているか、そして、反論が如何に広まりにくいものであるか、その実例として見て置きたかったのである。ご諒恕下さい。
 思えば私も、赤マント流言や美大焼身自殺、或いは道了堂、大和田刑場跡などについて、従来の好い加減な説に、確実な資料で反論を試みたのだが、殆ど広まっていない。相変わらず好い加減な説の方が主流として行われている。一方で、私の調査を参照している書籍や SNS 等もあるが、十分な敬意を払わずに使われている印象である。――私は、当ブログで調査結果を報告するとともに、他人の調査に基づいて物を書くと往々にして間違いが生じるものだから、書籍や雑誌に当ブログの調査結果を利用するのであれば、まづは自分で書いてしまうのではなく、調査の当事者で、ブログには書ききれなかった機微にも通じている私に、書かせて欲しい、と訴えていたのであるが、ついこの間も、見事に無視されてしまった。一応連絡を取ったこともある人なのだが、当ブログを利用したことを伝えても来なかった。或いは、知らせたら「書かせろ」と言われると思ったのだろうか。言うけど。でも、当然でしょう、最適任なのだから。まだ当該書を手にしていないが、ネットで見られる範囲でも、ちょいちょい間違いがあるようだ。言わんこっちゃない、と言うより他はない。何故こういうことをするのだろう。
・第33話「あいつが追ってくる」
 冒頭、182頁3~4行め、

 あのN君の、これも大学生の時の話なんですよ。
 大学で、共同研究をすることになりましてね。

と、これもN君の体験談である。尤も、怪異を体験したのは「共同研究」の「仲間」4人で、N君は極度に怯えている仲間に遭遇することになっている。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 「まさと」氏の挙げている動画等では、稲川氏は中山氏のことを自分の「ブレーン」だと言っている。しかし木原氏は「別冊・怪談ラヂオ」第40回の要旨によると「稲川氏によると、‥‥。中山市朗氏は元々稲川氏のアシスタントだと言うが…。/事実無根と中山氏は全否定。‥‥」と述べているそうだ。「中山市朗ブログ」だと『新耳袋』を手渡しただけだと云う。確かに、本に載せた話を直接稲川氏に話すこともあったかも知れない。それでもしかし、既に本に載せている話なのである。
 なお「ミドルエッジ」の記事に対するコメントに「本当に盗作ならちゃんした証拠あるならば用意して、裁判でも起こしてちゃんと訴えるべきでは?」とあるが、そう簡単な話ではない。金も時間も掛かる。精神的にも消耗する。だからこそ、専任の弁護士にスラップ訴訟を仕掛けるような輩が出て来るのである。そこで、そこまで話を拗らせる前に、謝罪してもらえるのならそれで許そう、と云うことにもなるのである。私も訴えるべきだったと思う。稲川氏がどうのと云うより、現在の怪談師や怪談作家、怪談系 YouTuber の跳梁を快く思っていない私としては、その Role model である稲川氏がここで打撃を受けて、その後、この業界にある程度の規律がもたらされることを歓迎したかったからである。その後の展開から見ても、当時の稲川氏の威勢は既にして「裁判になればボロ勝ちするのは明らか」「絶対勝つとわかっている裁判」を経ても「タレント生命を抹殺」されるようなことにはならなかったであろうし。
 それから「まさと」氏は、稲川氏との関係が拗れた頃に、イベントで中山氏に直接「稲川さんと同じ話がありますよね」と訊ねると云う貴重な(!)経験を披露している。そのとき、中山氏が「私が元ネタ」と云う主張をせず、非常に不機嫌な顔をして「稲川さんとうちは関係ない。たまたま似てしまっただけでしょ」と返答したことを不審に思っているのだが、稲川氏、その関係者、出版社、ワイドショー、そして稲川信者にまともに取り合ってもらえず、その度に煮え湯を飲まされてきた中山氏としては、不用意に発言して今更外野に蒸し返されたくなかっただろうし、そもそもそんな相手とは関わりを持たないことが、精神の安定を保つには一番である。だから、当然このような返答になるだろうと思う。木原氏が16年間沈黙を守ったのも、同様の理由からと思われるのだ*4。(以下続稿)

*1:ブックオフオンラインでは同じ書影で「発売年月日 1994/08-02」と「発売年月日 1995/07-07」の2点がヒットする。ブックオフではバーコード(ISBNコード)で在庫管理しているはずなので、1995年のリイド文庫(ETシリーズ)の前年に刊行されていたのは確かなようだ。

*2:2016年2月11日に「稲川淳二のパクリ疑惑について知るところ」と題してアメブロに投稿したものの改訂稿らしい。

*3:森本氏が「これ、稲川淳二の話だ」と思った、と述べているように、物を見るとき「先入主」と云うことが起こる。先に入ったものが主になるのである。そして、その後から正しい意見を述べても、なかなか先に入ってしまったものを押しのけるに至らない。良くてせいぜい、この盗作問題について幾つか目にしたような、どっちもどっち、と云った捌き方になってしまう。――だからワイドショーを利用しした、と云うのは非常に巧妙、かつ効果的な手段であった。これで、もう勝負は付いたも同然である。

*4:私も学界から足を洗ったときのことを思い出す。もう15年になろうとしているから、もうそろそろ書いて置くべきかも知れない。大分忘れてしまったが、死んでしまわぬうちに。