瑣事加減

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反町茂雄『一古書肆の思い出』(3)

・『一古書肆の思い出5 賑わいは夢の如く』一九九二年 六 月 五 日 初版第一刷発行・口絵+ⅲ+目次+400+15頁

平凡社ライブラリー 277『一古書肆の思い出 5 賑わいは夢の如く1999年1月15日 初版第1刷・定価1,500円・409頁 上製本にはアート紙口絵が8頁(頁付なし)ある。2~3頁めと6~7頁めの見開きはカラー。1頁めは「弘文荘の玄関にて(昭和六十一年撮影)」背筋の伸びた背広姿、以下は古典籍の写真。平凡社ライブラリー版には肖像写真のみ10頁(頁付なし)に「●著者 弘文荘の玄関にて昭和61年(1986)撮影」として掲載されている。
 第四巻までは巻末横組みの「索引」のみ縦に長いすっきりした字体で、本文は活版風の四角張った字体であったのが、本巻から本文も縦に長いすっきりした字体に変わっている。「印刷 明 和 印 刷 株 式 会 社」は変わりない。「明和印刷株式会社」HP「沿革」を見るに、本書刊行の頃、

昭和60年 1985 工場移転計画発表・建設委員会設置 CPU組版機IPS設置 両面オフセット印刷機導入
昭和61年 1986 総合印刷工場としての戸田工場竣工 モリサワ電算写植システム導入 製版システム導入/刷版システム導入 両面オフセット印刷機導入 両面オフセット輪転機導入
昭和62年 1987 戸田工場竣工披露
昭和63年 1988 オプチコピーカメラシステム導入 CPU生産管理システム稼働
平成 元年 1989 ハイデル5色機導入 生産管理システム、印刷技術協会賞受賞
平成 2年 1990 製本部門の株式会社明光発足 Macintosh IIci 2台導入
平成 3年 1991 ライノトロニック300導入 スタバンロボット導入
平成 4年 1992 松村寿夫社長に就任 三菱ダイヤ両面オフセット機導入

と続々となされていた、印刷機やシステム・PCの新機種導入の影響があったもののようである。
 平凡社ライブラリー版は5~9頁「目次」と上記肖像写真の次、11~13頁「『一古書肆の思い出』の読者の皆様へ」が掲載されるが、上製本は口絵の次にローマ数字の頁付でⅲ頁、第一巻「御あいさつ」や第三巻「首に」と同じ組み方であった。これはⅲ頁9行め(13頁1行め)「平成三年六月二十五日」付。10~11行めは下寄せでやや大きく「弘文荘 反 町 茂 雄/(病床で口述した読者宛書簡)」とあって、氏名の横に断り書きが来るように組んでいるが平凡社ライブラリー版13頁2~3行めは氏名の字間を詰めて、社名の脇から断り書きになっている。
 内容は第五巻の刊行が遅延していることにつき、その理由・実情を説明したもので、ⅰ頁9行め「遅々として筆が進まない」理由としては、ⅱ頁1~7行め(11頁10行め~12頁3行め)、

‥|‥。前後六十年を越える長期間にわたる資料は非常に沢山集積してありますが、主要/な題目は|只一つ、貴重稀覯な古典籍の売買・移動にまつわる逸話であります。ですから、/記述が類型に|陥り易い、話がマンネリ化しがちです。「同じような話ばかりだな」と、読/者の皆さんにあき|られてしまう危険がある。それを避けるためには、なんとか別の色をつ/ける、違った角度から|【11】光を当てる、まつわる逸話に心を配る、物ではなく人に重点をおく、/等々の心配りが必要です。|それが、なかなかうまく出来ない。一日に三枚ずつの予定が二/枚になり、時には一枚さえも纏|め得ない日もあります。‥‥

と説明している。確かに、政治社会情勢や国際情勢を古本業界と絡めた書いた節は参考になる。しかしそれで分量が増え、筆が進まなくなり、内容的にも遅滞することになっては元の子もない。今からすると、そないな工夫せんでもマンネリでもなんでも構へんからとにかく終いまで書いとくなはれ、と思ってしまうのだけれども。
 さらに、ⅱ頁11~12行め(12頁7~8行め)「‥‥平成三年三月のはじめに、思いがけな/く胆|のうに傷害を受け、同四日から虎の門病院に入院を余儀なくされました。‥‥」そしてⅲ頁1~3行め(12頁10~12行め)、

‥‥。|入院後すでに三ヶ月を越え四ヶ月に近づきつつありながら、いまだに回春に/は向かいません。数|多くの原資料及び参考書に当たらなければ執筆不可能の『思い出』の原/稿は、この間一枚も書|けないのが実情であります。

と、全く書けなくなっていたのである。但し入院前、ⅱ頁10行め(12頁5~6行め)「‥‥、二月末までに書き上|げたのは二百七十四枚だけでした。」とあるのだが、397~400頁(344~347頁)、平凡社編集部「編 集 後 記*1」には、397頁9~11行め(344頁10行め~345頁1行め)、

 本巻に収録した『思い出』遺稿は、生前に編集部に手渡された原稿三百一枚と、反町家に遺|されて/いた未定稿三十六枚であります。内容は、昭和二十七年初めから二十八年半ばまで。戦|後の混乱が沈/静化し、古典籍の市場への膨出もようやく下り坂に向かったところで、筆を擱*2か|れています。

とあって、「『一古書肆の思い出』の読者の皆様へ」以後に27枚書き足し、さらに36枚書き掛けていたことになる。いつ、どうやって書いたのだろうか。いや、13行め~398頁1行め(345頁3~4行め)「‥‥、入院直前まで手放されなかった草稿には、書入れ、抹消、|用紙貼り継ぎ/の追加等、ご苦心の痕がたくさん残っています。‥‥」とある「草稿」が「未定稿三十六枚」だとしか思えない。そうすると274枚と云うのは計算違いで実際には301枚渡してあったのだろう。
 さて、ここで昨日の最後に、第四巻に全巻編成の変更についての記述がない、と云うことを問題にしたけれども、本巻に於いても其処は全く問題にされていない。「『一古書肆の思い出』の読者の皆様へ」でも時候の挨拶に続いてⅰ頁4~6行め(11頁3~5行め)、

 いつも拙著『一古書肆の思い出』(平凡社発行、全五冊のうち既刊四冊)を御愛読いただき/まし|て、有難う存じます。その第四巻を出版致しましたのは、平成元年八月で、すでに一/年十ヶ月|を経過致し、‥‥

とあり、ⅲ頁4~6行め(12頁13~15行め)にも、

『一古書肆の思い出』第五巻の公刊は、以上のような理由で延引に延引を重ねておりま/す。|何卒御諒承下さい。私自身は、遠からず必ず病魔を克服して、健康をとり戻し、全五/巻を完成|する決心をしております。‥‥

と述べている。この読者宛書簡はⅱ頁7~9行め、

‥‥。昨年十二月に平凡社さんに、三年/六月末迄に第五巻分、六百数十枚の原稿を必ず全部揃えてお渡しすると堅い約束をしまし/た。‥‥

との約束が果たせそうにないのでその25日に口述筆記させたものなのだが、残り300~400枚で「全五巻を完成」させるつもりだったことになる。
 しかし、そんなことが可能だったとはとても思えないのである。
 すなわち、本巻は「Ⅰ 一つの転機を迎えて(昭和二十七年)」の1年分が8節3~217頁(14~215頁)、そして「Ⅱ 平和な時代と古書業界(昭和二十八年)」は3節で未完に終わり219~261頁(216~255頁)、ここまでで未定稿も含め337枚分と云うことになる。――109頁10~13行め、新宮春三(1952歿)について述べた中に、

‥‥。もしも永らくの在外/勤務ではなく、大阪又は東京に居着いて、本腰で日本の古典籍の蒐集をつづけられたら、仮りに多く/の阿堵物*3には恵まれなかったとしても、実質的に優れたコレクションを成就されたろうと想像されま/す。三村竹清さん(この人の事は後に記)の様な実例もありますから。

とあるのだが本巻の続く部分に竹清三村清三郎(1876.5.4~1953.8.26)のことは書かれていない。353~372頁、青木正美 作成「反町茂雄年譜」を見るに、362頁上段5~10行め「昭和二十八年(一九五三)五十二歳」条の最後に「九月二十三日、三村清三郎遺書売立。」とある(平凡社ライブラリー版は横組みで373~356頁、当該項は365頁23行め)から、この「Ⅱ」章はもう少し書き継がれるはずだったと察せられる。
 当初、第三巻「古典籍の奔流横溢」、第四巻「賑わいは夢の如く」で完結の予定だったのが、昭和40年(1965)頃までを扱うはずの「古典籍の奔流横溢」は敗戦から昭和23年(1948)までで1冊分になってしまい、新たに「激流に棹さして」との副題の第四巻を増入して昭和40年(1965)頃までを扱うつもりだったのが、これも昭和24年(1949)から昭和26年(1951)の3年で1冊分になってしまった。そこで第四巻から第五巻にスライドした「賑わいは夢の如く」は、昭和40年頃から昭和60年(1985)頃までの約20年分を扱うことになっていたのを、10年以上前から始めることになってしまった。しかも、その2年め昭和28年(1953)も少なくともあと2節必要として、それで400枚を超えてしまう。残り200~300枚で、昭和29年(1954)から昭和60年(1985)の32年分を収めようとしたら、恐ろしいくらいの駆け足になる。これでは「読者の皆さんにあきられてしまう危険」どころか、余りの端折り振りに「あきられてしまう危険」があるだろう。どう考えてももう1巻、いや、このペースのままで行けば2巻は必要である。
 本巻は、本篇の分量が少なくなってしまった分を、カラー口絵、それから262~263頁(頁付なし)の間にアート紙のモノクロ図版を4頁(頁付なし)を挿入して、反町氏の参加していた勉強会や展示即売会での集合写真などを紹介し*4、講演記録や回想、座談会、396~373頁、編集部作成「反町茂雄著述目録」等で補充し、第一巻と同じくらいの分量にしてある(用紙が薄くなったせいか、厚みは及ばない)のは良い。特に「反町茂雄年譜」と「反町茂雄著述目録」は有難いのだけれども、副題が甚だ宜しくない。これほどそぐわない題もない。これについては「編 集 後 記」397頁6~8行め、

『一古書肆の思い出』(全五巻)は、著者逝去により、とうとう未完に了ってしまいました。悲しみ/の極みですが、せめては遺稿その他による第五巻を編集、刊行し、未完の長篇自伝の結びといたしま/す。巻名は、在りし日の著者が名づけられたままに、「賑わいは夢の如く」といたしました。

と断ってある。確かに、反町氏は最後まで「全五巻」と言い続けており、そして最終巻の題は「賑わいは夢の如く」なのだから、第五巻の題は「賑わいは夢の如く」になるべきではあろう。
 しかし、追って確認するが、第一巻「おわりに」に説明していたような時期・内容を扱うから「賑わいは夢の如く」なのであって、昭和28年ではまだ「古典籍の奔流横溢」の、反町氏の表現を借りるなら、まだ「大変動期」の「余震」が続いている段階だったのだから、やはり「賑わいは夢の如く」の題は、当初予定されていた時期・内容に及ばなかった以上は、代案がなかったにしても使うべきではなかったと思うのである。そのため、私たちは内容に齟齬を来したこの題を強制されることとなってしまった。――入院してから逝去するまで丁度半年あった訳だし、退院後書き継ぐことが可能だったとしても昭和60年までを1冊に収められると思えない以上、「『一古書肆の思い出』の読者の皆様に」の時点で編集部には、反町氏に全6巻とすべきこと、そして「賑わいは夢の如く」は最終巻の副題となるべきものだから今度出る第五巻の副題を別に考えて欲しいとの確認を、して置いてもらいたかったと思うのである。(以下続稿)

*1:400頁6行め(347頁11行め)「平成四年五月」付。

*2:ルビ「お 」。

*3:ルビ「お か ね 」。

*4:平凡社ライブラリー版にはない。