・反町茂雄「辞書のはなし」(3)
『反町茂雄文集』はとっくに返却してしまって、俄に確認しに行くことも出来ないのだが、『下』巻末左開き36頁の「索 引」を見るに、1頁左22行めに、
赤堀又次郎 上128
とあること、そして34頁右27~28行めに、
横尾勇之助(文行堂書店)
上127,下131,277,359,128129
と謎の6桁の数字が入っていることとはメモして置いた。『日本百科大辞典』のことは当時念頭になかったので控えていない。
それでは、仮に赤堀氏関連のブログ記事【①空山】として整理したHN「空山」こと岡島昭浩のブログ「くうざん、本を見る」の2006-05-19「判明」が紹介した「戦災を免れた古辞書のこと」を『反町茂雄文集』所収の本文にて確認して置こう。上128頁上段9行め~下段14行め、
早稲田南町の、夏目漱石の旧邸の近くに、赤堀又次郎/さんという老学者が住んで居られました。実力のある国/語学者で、『国語学書目解題』『日本文学者年表』など、/先駆的な労作で知られたお人でしたが、地味で、やや狷/介な性格だったせいか、晩年は不遇でした。敗戦決定の/二、三年前になくなりましたが、歿前に、まだかなり多/くの蔵書中から、古い箱入の古典籍一つを取り出して、
これは大切な書物だから、万々一の場合にも、これ/
だけは持ち出しなさい。
と言い遺されました。奥さんは小柄の、細面*1の、弱々し/い感じのお方でした。【128上】
五月二十五日、皇居をはじめ、丸の内から、都内中心/部一体を焼いた大空襲は、牛込から早稻田方面をも焼き/尽しました。老弱の赤堀未亡人は、健気*2にも、あの箱た/った一つだけを抱き守って、猛火の下をくぐり抜けて、/蒲田の親戚のもとにたどり着かれました。
函の中には、『文明六年本節用集』という、稀代の古辞/書が秘められてありました。それは赤堀さん以外に誰れ/一人見た事のない天下一品の、学問的な珍書で、後に国/会図書館の大きな安全な書庫の中に納まりました。同館/で、それを詳細に調査した川瀬一馬博士は、その大著『古/辞書の研究』の中で、「精査の結果は、……節用集の研究/の上には、実に根本的な重要資料である」と、讃嘆して/居られます。昭和四十五年に、中田祝夫博士の解説つき/の複製本が、風間書房から刊行されました。
対応する『一古書肆の思い出3』の記述は4月2日付(12)に抜いて置いた。
執筆時期は余り変わらない。前回見た『日本百科大辞典』の記述は明らかに『一古書肆の思い出1』の補足と云うべきものであったが、こちらは相補う関係と云うべきであろうか。しかしやはりPR誌向けの文章と云うこともあって、こちらの方がやや砕け、そして想像を逞しくしたところがあるようである。
まずは一昨日も指摘した「敗戦決定の二、三年前になくなりました」と云う件であるが、これは誤りで赤堀氏は2つの雑誌に昭和20年(1945)1月号まで寄稿を続けていた、晩年、反町氏が読むような国文学関係の雑誌には執筆していなかったが、最期まで現役の文筆家であった。従って「晩年は不遇でした」と云うのも正しい評ではない。
それから、赤堀氏の遺言のシーンが若干劇的になっている。『一古書肆の思い出』ではもっと淡々として「大事な書物だから、万一の場合には持ち出す様に」と云った按配であった。
ただ、ここで「細面」と云っているところが注意される。赤堀氏の肖像を未だ目睹しないが、4月5日付(15)に見たように、赤堀氏の長男と思われる赤堀秀雅は「非常な美男子」であった。その母親も、3月30日付(09)に引いた『一古書肆の思い出2』の描写では貧相な老婦人と云う印象を受けてしまうが、中々の美人であったらしく思われるのである。
そして、赤堀家の被災を「五月二十五日」としていることも、漱石山房、早稲田周辺の被災がこの日であるから間違いようのないことではあるが、『一古書肆の思い出』には書かれていない日付である。
ただ、続く「あの箱たった一つだけを抱き守って、猛火の下をくぐり抜けて、蒲田の親戚のもとにたどり着かれました。」とは、反町氏が自分の得ている知識から想像して筆を滑らせた、と見るべき箇所で、『一古書肆の思い出3』に登場する赤堀未亡人はこのような劇的な説明をしていない。こうだったかも知れないし、家が猛火に包まれる前に、早く逃げた方が良いと言われて避難していたのかも知れない。そして「蒲田の親戚」は反町氏を訪ねた昭和21年(1946)11月現在の寄寓先で、昭和20年5月時点で蒲田まで逃げていたかどうかは分からない。4月14日付(24)に見たように、昭和16年(1941)の時点で豊島区雑司ヶ谷1丁目302番地に赤堀氏の妹の中島セキが夫と長男・長女とともに住んでいた。ここは現在の豊島区雑司が谷1丁目11番辺りらしく、戦後米軍が撮影した航空写真を見ても被災していないようである。その後中島家がどうなったかの知識もないのだが、もしそのまま住み続けていたとしたら、まづは雑司ヶ谷を頼ったのではないかと思うのだがどうだろう。
なお、赤堀未亡人の出自については4月1日付(11)に報告したが、川瀬一馬『古辭書の研究』にも記述がある。次回はこの辺りを確認することとしよう。(以下続稿)