瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(03)

・住所と原籍
 ところで『御即位及大嘗祭』自跋に明治45年(1912)5月1日に「電車の為に負傷」とあることから、この辺りに絞って国立国会図書館デジタルコレクションを検索して見るに、事故のことは判らなかったが、当時の赤堀氏の住所と生年月日が判明した。
③「明治四十四年度愛親會會報愛親の花」明治四十四年七月七日印刷・明治四十四年七月十日發行・愛親會・五十+十八頁
④「明治四十五年度愛親會會報愛親の花」明治四十五年七月十二日印刷・明治四十五年七月十五日發行・愛親會・四十八+十三頁
⑤「大正三年度愛親會會報愛親の花」大正三年七月?・四十九+十六?
 「附」載の「愛親の花」は会員に募集した詩文を纏めたもの。大正三年度版は奥付を欠いており「愛親の花」が十六頁までだったのか、それとももう少しあったのかが分からない。――「愛親会会報」は国立国会図書館にはこの3冊しか所蔵しておらず、愛知県の公立図書館には所蔵がない。
 旧犬山藩士を中心とした親睦組織である愛親会については、一昨年発表された林幸太郎「大名華族と同郷会/――旧犬山藩主家成瀬家を事例に――」(「徳川林政史研究所 研究紀要」第五十五号(一〇三~一二三頁、2021年3月発行『金鯱叢書』第四十八輯所収)に詳しい。一〇七頁上「〔表1〕愛親会の会員数」に「愛親会会報」の、①明治四十一年度 ②明治四十二年度 ⑥大正九年度 ⑦大正十、十一年度 ⑧大正十二年度 ⑨自昭和五年度至昭和七年度 の6冊を利用しており、林氏が活用した犬山城白帝文庫歴史文化館所蔵成瀬家文書にはこの6冊のみ所蔵されていたようだ。「」一一七頁上段11~12行めに、

(23) 『明治四十一年度 愛親会会報』。なお、明治四一年度以前の愛親会報は現在/ 確認できておらず、同年度以降の会報も断片的にしか残存していない。

とある。国立国会図書館の ③明治四十四年度 ④明治四十五年度 ⑤大正三年度 の3冊は、成瀬家でも紛失してしまっていた本、と云うことになりそうだ。
 ①~⑨の番号は仮に現存する(と思われる)ものを整理するために打ったものだけれども、犬山まで行く用事がないので俄に全てを確認する訳に行かない。今は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る③④⑤について眺めておくことにする。
③二十七~三十一頁「東京愛親會會員宿所氏名並年齡(順序ハ生年月日ノ順ニ據リ算月ハ/本年二月迄トス、四十四年二月調)」の32人め(二十九頁2行め)に、

東京市牛込區市ヶ谷田町二丁目三十三番地 |赤 堀 又 次 郎|慶應二年九月十日生   四十四年六ヶ月

とあり④二十五~三十頁2行め「東京愛親會會員宿所氏名並年齡(順序ハ生年月日ノ順ニ據リ算月ハ/本年二月迄トス、四十五年二月調)」では30人め(二十六頁17行め)に見えており「宿所|姓名|生年月日」欄には変更なく「滿年月」欄が「四十五年六ヶ月」になっているのみ。
 東京都新宿区市谷田町は住所表示が実施されていないので2丁目33番地は現在もほぼ同じ場所で、法政大学市ヶ谷田町校舎(デザイン工学部)がある。但し法政大学の各種紹介 Web サイトに出て来る地上5階地下1階建てのある場所の大部分は34番地で、牛込中央通りに面して建つ、Web サイトに全く触れられていない3階建ての別棟のある辺りが、33番地である。
 ⑤二十五~三十頁4行め「東京愛親會會員宿所氏名並年齡(順序ハ生年月日ノ順ニ據リ算月ハ/本年二月迄トス、大正三年二月調)」にも30人め(二十六頁17行め)に見えており、

東京市牛込區市ヶ谷加賀町二丁目十四番地 |赤 堀 又 次 郎|慶應二年九月十日生   四十七年六ヶ月

と、『御即位及大嘗祭』と同じ住所である。林氏が参照した犬山城白帝文庫歴史文化館所蔵のものも参照出来ればもう少々細かく辿れるのだけれども。
・「圖書館雜誌」第參拾號(大正六年四月十日發行・日本圖書館協會)は「日本圖書館協會沿革略」七〇頁と「日本圖書館協會會員氏名録」一七頁から成るが、後者の一頁上段「日本圖書館協會會員氏名録(五十音順)大 正 六 年 三 月 調 (◎名譽、◯特別、△終身)」の「◯東京府東京市」の2人めに、

牛込區加賀町二ノ一五              ○赤 堀 又 次 郎

とあって、肩書はない。
・「圖書館雜誌」第四拾七號(大正十年十二月十七日印刷・大正十年十二月二十日發行・非賣品・日本圖書館協會・六十六+4頁)十四頁11行め~四十頁上段「日本圖書館協會會員氏名録  大 正 十 年 十 月 末 日 現 在」には3人めに、

牛込加賀町二ノ一三               赤堀又次郎

とある*1。「圖書館雜誌」には赤堀氏の経歴や業績についても少なからぬ記述があるが、追って確認することとしたい。
赤堀又次郎『衣食住の變遷』第一食物編(昭和七年一月二十日印刷・昭和七年二月十二日發行・定價金一圓三拾錢・ダイヤモンド社出版部・二+二+九+二〇四頁)の奥付には赤堀氏の名前の右に「東京市牛込區加賀町二ノ二」と添えている。
赤堀又次郎『國體及國史のはなし』(昭和十一年六月二十日 印  刷・昭和十一年六月二十九日 發  行・定價金貳圓・冨山房・一+八+一〇+五〇八頁)の奥付には「東京市牛込町加賀町二十二番地」と奇妙な住所が添えてある。――「二十二番地」だけでは一丁目か二丁目か分からない。「二ノ二」の誤読ではないかと思われるのである。
 牛込区市谷加賀町二丁目十四番地と十五番地は現在の新宿区市谷加賀町2丁目4番の北東角にある集合住宅(?)のある所で、大妻加賀寮の東、南東角の大日本印刷健康保険組合の北、十四番地はその中央から南・東を占め、十五番地は道路に面した北と十六番地に接する西を┏ 型に十四番地を囲うようにしている。そして十三番地は現在の新宿区市谷加賀町2丁目6番の南側、二番地は現在の新宿区市谷加賀町2丁目6番の北側(但し北東角を除く)である。
 そうすると電車で負傷した後、大正初年に牛込区市谷田町二丁目から牛込区市ヶ谷加賀町二丁目に移り、その後は南から北へ100mほどを、十四番地・十五番地・十三番地・二番地と少しずつ転居して行ったようだ。
久松潜一編『國語國文學年鑑』第貳輯(昭和十六年五月十三日印刷・昭和十六年五月二十日發行・定價三圓八拾錢・靖文堂・6+2+436頁)
 393頁(頁付なし)附録「〈國 語/國文學〉研究論文執筆者名簿――其 一――(發音記號式五十音順)」はその裏、394頁(頁付なし)に凡例として5項目、うち1項め、1~9行めに、

一、本名簿は、國語國文學年鑑第一輯の執筆者索引に基き、その中より、第一回として、昭和十五年秋、
  約四百人に對し左の如き事項に就いて照會を發し、その回答によつて作成した。
   ① 現  住  所
   ② 生  年  月
   ③ 原     籍
   ④ 勤 務 先(職 業)
   ⑤ 学     歴
   ⑥ 專 攻 題 目
   ⑦ 主なる著書論文

とあって、10行め「昭和十三年中に著作・論文を發表し」て『國語國文學年鑑』第一輯に執筆者として掲載された者について照会状を発し、その回答に基づいて作成したもので、15~16行め「回答に接しなかつた人々に就いては、編集委員が出來る限り調査を/なして作成した」として「氏名の上に*印を附して」区別してある。そして395~436頁まで3段組でその回答が並ぶ訳だが、ここに赤堀氏も載っているのである。*印がないから本人回答である。「ア」の2人め、395頁上段8行め、2行取り2字下げでやや大きく「赤 堀 又 次 郎*2」として9~12行め、

東京市牛込區早稲田南町四 ②慶應二年/九月十日 ③牛込區加賀町二ノ二 ⑤明治/二十二年一月より私立言語取調所の事業に/從事す ⑦國語學書目解題一册


 愛知県犬山出身のはずだが③牛込区市谷加賀町二丁目二番地に本籍を移していたことが分かる。私立言語取調所は⑤ではなく④と云うべきではないかと思ったのだが、現在の勤務先ではないから⑤に書くしかないのかも知れぬ。
 さて、この調査のときには市谷加賀町二丁目から早稲田南町四番地に移っているのだが、この転居は昭和11年(1936)のことである。次回はこれについて述べた文献を、見て行くこととしよう。(以下続稿)

*1:「◯凡 例」に拠ると「◯ハ特別會員」。

*2:ルビ「アカ ホリ マタ ジ  ラウ」。