瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(04)

・「犬山壮年會雜誌」の連載と住所(1)
 昨日の最後に見た『國語國文學年鑑』第貳輯に、当時の赤堀氏の住所が牛込区早稲田南町四番地とあることについて、その転居時期に触れた文献を取り上げる予定であったが、その前に赤堀氏の学歴に関連して、昨日の最初に触れた林幸太郎「大名華族と同郷会/――旧犬山藩主家成瀬家を事例に――」に取り上げられていた、旧犬山藩の子弟を中心に組織された犬山壮年会が東京で刊行していた「犬山壮年會雜誌」に見える赤堀氏の動向に触れて置きたい。
 犬山壮年会が発行した雑誌については林氏の論文の次の「」等に簡潔に説明されている。一一七頁下段17~22行め、

(38)壮年会では、明治一九年四月に『犬山壮年会雑誌』第一号を発行したが不許/可となり、同年六月に『愛親雑誌』(筆者の大部分は壮年会員)を発行、さらに明/治二一年一〇月に再度『犬山壮年会雑誌』第一号を発行した。明治二五年七月発/行の第三七号ののち、同二六年一月から『犬山壮年会雑誌』第一輯にナンバリン/グし直し、以降は隔月発行となっている(後藤吉三郎「創立五十周年記念大会を/迎へて」 『智仁勇』第三四一編〔昭和一〇年九月〕)。


 犬山城白帝文庫歴史文化館成瀬家文書には昭和19年(1944)2月に終刊となった改題後継誌「智仁勇」第366号まで所蔵しているようだが、国立国会図書館には「智仁勇」は所蔵されていない。「犬山壮年会雑誌」も第七號と第十四號から第三十七號までを所蔵していない。すなわち第一號から第六號、第八號から第十三號、第一輯から第十二輯の24冊を所蔵しており、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧出来る。非發賣品
・第壹號(明治二十一年十月二十四日印刷・明治二十一年十月二十五日出版御屆・四十六頁)
 四十~四十一頁9行め「文苑」欄に、四十頁2行め~四十一頁2行め、赤堀又次郎「菊」の寄稿がある*1
 奥付の前の頁「本 部 會 員 人 名(羅馬字順)」18名、その1人めが「帝國大學古典講修科卒業生a赤堀又二郎」である。四十六頁とこの名簿の間に子持枠で4頁(頁付なし)の「會    告」がある。その1条め(1頁め2行め)に、

●七月十日會員赤堀又二郎氏帝國大學古典講修科ヲ卒業ス

と名前が違っているようだが明治21年(1888)7月10日帝国大学古典講修科卒業であることが分かる。
 5条め(2頁め4~11行め)、

●九月二十三日會員赤堀又二郎氏ノ卒業祝宴ヲ四谷坂町遠州屋(五溪樓)ニ開ク會ス/ルモノ十一人正副會長閣下特ニ金圓ヲ義捐シ費用ヲ補助ス出席人名左ノ如シ

として以下11人の連名、まづ會長の成瀬正雄、副會長の成瀬美雄の兄弟、そして3人めに「赤 堀 又 二 郎」の名が見え、最後は幹事の北尾鼎である。
 7条め(2頁め13行め~3頁め2行め)、

●十月七日月次會ヲ開ク出席スルモノ十人出席人名左ノ如シ

とあって続く連名の1人めに赤堀氏の名が見える。
 しかし月次会の記事等まで拾っていては大変である。――赤堀氏は東京本部の中心メンバーとして、第貳號から「論説」欄に歴史評論、そして「講義」に古文評釈を連載、たまに「雑録」記事も寄せている。しかし、この辺りを頁まで細かく拾って行くのも中々大変である。当時の(和綴)雑誌によくあることであるが、本文とは別に附録――本誌の場合「講義」は、各科目を少しずつ、科目ごとに独立した頁付で連載していて、後で切り離して綴じ直して1冊に纏めるような按配になっている。この紙数を一々勘定していっては大変なので、頁数は本文部分の頁付をメモして置くこととする。
・第貳號(明治二十一年十一月二十三日印刷・明治二十一年十一月二十五日出版・四十六頁)
・第三號(明治二十一年十二月二十日印刷・明治二十一年十二月二十日出版・三四頁)
 巻末「會告」中、「本 部 會 員 宿 所 姓 名  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 二 郎」、住所は「麴町區飯田町五丁目二十七番地落合直文*2」で肩書は「帝國大學古典講修科卒業生」。
・第四號(明治二十二年一月二十日印刷・明治二十二年一月二十日出版・二八頁)
 巻末「會告」中、「本 部 會 員 宿 所 姓 名  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 二 郎」、住所は「本郷區森川町壹番地宍倉方」で肩書は「帝國大學古典講修科卒業生」。
・第五號(明治二十二年二月二十三日印刷・明治二十二年二月二十三日出版・三八頁)
・第六號(明治二十二年三月十九日印刷・明治二十二年三月二十日出版・三八頁)
 一頁の子持枠のノド欄外に「犬山壮年會雜誌第六號附録(明治二十二年三月廿日發兌)」とあり八頁のノド欄外に奥付があって独立させることの出来る八頁の附録の四頁までが「犬 山 壮 年 會 會 員 宿 所 姓 名 明治二十二年二月三日調」で「本部會員  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 二 郎」住所肩書とも第四號に同じ。
・第七號
・第八號(明治二十二年五月十四日印刷・明治二十二年五月十五日出版・六二頁)
・第九號(明治二十二年六月十七日印刷・明治二十二年六月十八日出版・五四頁)
・第十號(明治二十二年七月五日印刷・明治二十二年七月六日出版御屆・五〇頁)
・第十一號(明治二十二年七月廿八日印刷・明治二十二年七月廿八日出版・六二頁)
 「講義」の後に子持枠の十頁、その三~七頁「犬 山 壮 年 會 會 員 宿 所 姓 名 明治二十二年七月十日調」で「本部會員  (羅馬字順)」の1人めに「赤 堀 又 次 郎」、住所は「四谷區尾張町八番地水野鎬方」で肩書は同じ。
・第十二號(明治二十二年十一月九日印刷・明治二十二年十一月十日出版・三八頁)
・第十三號(明治二十二年十二月十八日印刷・明治二十二年十二月二十日出版・四二頁)
 赤堀氏の連載は論説「徳川氏の興亡を論ず」が第貳號(其一)、第三號(其二)、第四號(其三)、第七號(其四)*3、第九號(其五)、第十一號(其六)、第十二號(其七)に、講義「土佐日記講義」第貳號(其一)、第四號(其二)、第六號(其三)、第十號(其四)に分載されている。しかし国立国会図書館蔵書はこの後がしばらく欠けているので、何処まで続いたかは不明である。(以下続稿)

*1:表紙の「目 次」には「赤堀又二郎君」とある。

*2:「麴」が右を上に横転。

*3:第七號は国立国会図書館には所蔵されていないので推定。