瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(41)

・齋藤精輔「日本百科大辭典編纂の由來及變遷」
 以前、笹野堅の事績を調べていたときには『日本文學大辭典』を、中込重明のように頭から読んでいられないので、当りを付けては、江戸時代後期の読本を中心とした笹野氏の執筆項目を拾って行ったのだった。しかし国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索で「笹野」と検索すれば全てヒットしてしまう。いや、文字が不鮮明になっていてヒットしない項目があるかも知れないけれども。――最近のネット環境で修訂する前に、23年前に着手して14年前までほぼ人力で作成していた「笹野堅著述目録稿」を一旦そのまま公開しようと云う気分になっている。
 同様に『日本百科大辭典』も「赤堀」で検索すれば赤堀氏の執筆項目が多分全て分かるはずである。いずれ手の隙いた折にでも総浚えして報告することとしよう。
 ところで一昨日触れた「三省堂 辞書ウェブ編集部による ことばの壺」の「ことばのコラム」には、やはり一昨日触れた辞書校正者境田稔信が「三省堂の辞典・書籍にまつわるコラム [三省堂辞書の歩み]」を連載していて、本書も2013.6.12.「第17回 日本百科大辞典」として取り上げられていた。
 境田氏のコラムでは、当時国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来るようになっていたものにはリンクが貼ってある。しかし本書は「国立国会図書館限定/図書館送信限定」だったらしくリンクがない。今は「送信サービスで閲覧可能」になったので登録しておれば何処でも見ることが出来る。
・『日本百科大辭典』第十卷(大 正 八 年 四 月 二 十 三 日 印  刷・大 正 八 年 四 月 二 十 六 日 發  行・大 正 八 年 十 月   十   日 再版發行・定價金拾八圓・日本百科大辭典完成會・六五四+三一四+四+五二三+四四頁・四六倍判)
 卷末「編纂の由來及變遷」との扉があって、図版(頁付なし)が4頁、1頁めは「者資出會成完典辭大科百本日」12名の顔写真、これは2頁め中段まで続いていて合計20名、下段は「團資出者學」4名、3頁めは「會成完典辭大科百本日/事理役談相督監」10名、各頁ノド側の下部に小さく(姓名いろは順)とある。そして4頁は右を上に横転した写真で「(町松老田高區川石小)所輯編及所務事會成完典辭大科百本日」木造2階建の洋風住宅。続いて本文、冒頭に「日本百科大辭典編纂の由來及變遷」と題して、四四頁18行め、3字下げでやや大きく「大正八年四月櫻花爛漫の日」付、下部にさらに大きく「齋  藤  精  輔  識」。どうも『辞書生活五十年史』の『日本百科大辞典』に関する記述は(ある部分では詳しくなった箇所もあるようだが)大略これの細かいところを省いたものであるようだ。今、細かい比較をする余裕も設備もないので(大型モニタがあれば対照させやすいのだが)極一端を眺めての印象である。
 ここでは、一昨日確認した『辞書生活五十年史』の記述に関連する箇所を拾うに止めよう。
 四頁11~12行め「‥‥、明治卅五年一月頃には、事業略其緒に着き/たれば、新たに編輯所を牛込區若宮町三十番地に設け、二十有餘名の編輯員を聘して原稿の整理/排列に着手し、‥‥」とあって『辞書生活五十年史』では分からなかった番地が判明する。若宮町は住居表示が実施されていないので現在もそのまま新宿区若宮町30番地である。そしてこの段落の最後、五頁4~5行め「‥‥。赤堀又次郎氏が入て編輯の一部を/擔當せられたるもまた此前後なりき。」とある。
 次の段落では株式會社東亞公司について述べているが、ここでは8行め「・津村重舍氏・」と姓を誤っていない。『辞書生活五十年史』では明治37年(1904)の夏頃に、東亜公司とは関係なく家主の郷誠之助に立退きを求められて東五軒町に移ったことになっているが、ここでは11~16行め、

‥‥、龜井忠一氏は專ら書籍の方面を/擔任することとなりしかば、從來の關係上予は龜井氏を輔け/て東亞公司の編輯事務を兼攝するの餘儀なきに至れり。か/くて從來の編輯所は漸く狹隘を感ずることとなりたれば、明/治卅八年六月編輯所を牛込區東五軒町二番地に移すと共に、/百科辭典編輯所の一部を割きて、東亞公司の編輯室に宛て、/‥‥

と東亜公司の編輯事務も兼ねることとなったために移転したことになっており、そもそも東亜公司日露戦争を承けて設立された訳だから、移転時期も明治38年(1905)6月、5月の日本海海戦で日本の優位が確定した後のこととなっている。郷誠之助は登場しない。この流れであれば仮に郷氏が家主であったとしても出す必要はないのだけれども。
 さて、どちらが正しいか、と云うことだが、一先づ早い時期のものに従って置くべきだろう。そして、なお傍証を求めるべきなのである。
 しかし「日本百科大辭典編纂の由來及變遷」を踏まえて『辞書生活五十年史』を執筆していると思ったのだが、やはり回想は単純ではない。
 なお五頁の1行字数が少ないのは下に「[觀 外 所 輯 編 町 軒 五 東 區 込 牛]」の写真があるからである。
 三二頁3行め「‥‥。/三省堂時代及完成會時代を通じ予以外に本辭典の編輯及事務に從事せる諸氏次の如し。」とあってイロハ順5段に人名を挙げて行く。三二頁には85人、そして三三頁に50人、「赤 堀 又 次 郎」は2段めの2人め、135人中92人めに見える。なお學士の肩書が26名に附されているが、赤堀氏にはない。
 四三頁16~17行め「當初本辭典の 編輯に就いて 最も力を盡されたるは 赤堀又次郎・岡部精一・笹川種郎・板橋盛俊・高木尚介・高橋龍雄・中島茂一/等の諸氏にして、完成會組織以後も、以上の諸氏は外部より種々の助力を與へられ、‥‥」と筆頭に挙がっている。(以下続稿)