瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(33)

・『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』(4)
 昨日及び一昨日の続き。
 国立国会図書館デジタルコレクションは『国語学書目解題』を2つ公開しているが、どちらも改装本らしく元の表紙がどうなっていたかが分からない。扉に「東京帝國大學御藏版」また奥付に「東京帝國大學藏版」とあるばかりで赤堀氏を著者として表示していないけれども、「緒言」や「凡例」等に「赤堀又次郎」とあって、かつ「緒言」の記述からしても赤堀氏がほぼ独力で完遂した著述のようではある。いや、雑誌等の予約募集や書評等は赤堀氏の著述として扱っている。
 山田孝雄は赤堀氏のことを上田萬年の教え子(亀田次郎保科孝一・宮田脩)と並べているが、教え子ではないし、年齢も1つ上である。チェンバレンに教わったり洋行したりと云った点では上田氏に及ばないが、国語・国文学の知識は上田氏を凌駕していたであろう。そして言語取調所がなくなってからも刊行のために努力してきた自分を差し置いて、上田氏が序文を書いて刊行するなど、到底容認出来ることではなかっただろう。どうせ麗々しく自己の業績であるかのように謳い上げた序文の最後に「本書編纂は赤堀又次郎君主に担任せられ」みたいな扱いにされてしまうのである。
 私は実際に仕事をした人物の名で出るべきだと思っているので、赤堀氏がそうさせなかったのは正しい処置だったと考えている。だからこそ赤堀氏は国語国文学史にその名を止め得たとも言えるのである。これが東京帝国大学国語研究室や、上田萬年の名で出ていたら、実際に仕事をしたのが赤堀氏でも、その扱いをしてもらえなかった可能性が高い。そして、このことで上田氏が赤堀氏を干し、さらに彼奴は味噌汁の文句を言うような困った奴だ等と言いふらしたのだとしたら、そっちの方が余程嫌な奴だろうと思うばかりである。まぁ真相はどうだったのかは分からんけど、このような話が広まっていることを「赤堀氏の偏屈」を語る材料だけに扱うのは片手落ちだと思うのである。
 それに、佐藤氏は『国語学書目解題』に関する山田孝雄の談話をⅰ頁13行め~ⅱ頁1行め「‥‥また、明治三十年(一八九七)に上田によっ/て、保科孝一とともに大学内の国語研究室の助手に任ぜられたともあるが、」と前置きして引用している。そして山田氏の談話「上田さんの下で『国語学書目解題』編/纂の助手をしてゐたが、‥‥」に続けては、助手の癖にボスに逆らったみたいである。しかし実際には明治23年(1890)10月に言語取調所が帝国大学に寄附される直前に上田氏は洋行し明治27年(1894)6月に帰国するまで不在であったから、『国語学書目解題』編纂にはほぼタッチしていないと思われる。上田氏を上司として始めた事業ならともかく、成り行きで上田氏の下で刊行することになっただけである。その意味で佐藤氏が、山田氏の談話を「回想」としているのは誤解を招く書き方である。山田氏は当時帝国大学界隈にいて親しく事情を見聞きしていた訳ではない。単なる伝聞である。その内容は事実かも知れないしただの憶測かも知れない。『国語学書目解題』に関して云えば、確かに赤堀氏の個人事業ではないが、実態としては限りなくそれに近い。――山田氏の談話は、飽くまでも上田氏側の言い分として捉えるべきものであろう。
 さて、佐藤氏は山田氏の談話の途中(ⅱ頁3行め)に「出版してしまった(同書刊行は明治三十五年)。」の註記を挿入し、さらに引用後に「(四〇頁)。これが赤堀のその後の研究人生に不利に働いたであろうことは想像に難くない。」とコメントする。ただ、物集高量が回想する(これは本当に当事者としての「回想」である)物集高見に対する仕打ちを見ても、当時の上田氏には年上もしくは同年輩の競合相手を排除する(もしくは完全に格下に位置付ける)必要があったと思われるから、これもその種の出来事と見て置くべきなのではないか。
 かつ、私はこれで赤堀氏の「研究人生」が直ちに「不利」になったとは思わない。有利になったとも思わないが、そもそもポストが少なかったのである。
 それから、赤堀氏を指して「在野」と呼ぶ人がいる。しかし2年間だが東京帝国大学文科大学講師を勤め、そして数年間だけれども東洋大学早稲田大学の講師、陸軍幼年学校の教授を勤めた人物は「在野」ではないだろう。在野とは三田村鳶魚とか三村竹清とか柴田宵曲とか、高等教育を受けず、大学教員にならなかった人物を指すので、赤堀氏は本科でなく学士号も授与されなかったけれども帝国大学古典講習科を卒業し、数年であっても官学で教えた経験もあるのだからこれらの人物と同類と見做す訳には行かない。
 ちなみに佐藤氏が、赤堀氏が明治30年(1897)に保科孝一とともに国語研究室の助手に任ぜられた、としているのは【④higo】が指摘する保科孝一『ある国語学者の回想』(昭和27年10月10日第1刷発行・定価 250 円・朝日新聞社・口絵+4+302頁)に拠るものと思われる。保科氏は246頁5行め「明治三十年七月」に「大学を出」ているが、51~79頁「第三 お世話になった先生を語る」に、卒業後、国語学を専門にする覚悟を決めたものの、51頁12行め~52頁2行め「‥‥、どういう方法によ/ればよいかに、ひそかに悩んでいたとき、はからずも上田先生の推薦で、文科大学の助手に任ぜ/られた。当時わが文科大学には各学科の研究室がまだ設けられていなかった。ドイツの大学では/各学科に研究室*1が設けられ、‥‥」6~9行め、

‥‥。上田教授が帰朝後外山学長に進言して、はじめて文科大学の/国語科にゼミナール制を設けられ、その助手に赤堀又次郎氏とわたしが任ぜられたので、わたし/は赤堀又次郞氏と相談して、できるだけはやく参考書籍を収集することに努力した。
 さいわい言語取調所の備付書籍がそのまま移譲されたので、まずその整理に着手した。‥‥


 これは『国語学書目解題』の「緒言」に合せて解釈すべき記述である。
 赤堀氏は言語取調所が帝国大学に寄附された時点で「文科大学雇」として帝国大学に移っていた。


 この Tweet にリンクが貼付されている「日本小文典原稿並日本小文典批評及日本大文典ノ材料或ハ原稿借受方照會ノ件」を見るに、その初めに綴じられている、

     証
一日本小文典原稿     壱冊
一チヤンバレン批評(原文) 弐綴
 右借用仕候也
           文科大学雇
明治廿五年四月廿一日  赤堀又次郎[印]

  書記官室
     御中

の1丁め(表)は赤堀氏の自筆で「又次郎印」と読める朱文方印が捺されている。2丁めは明治廿五年四月十五日付の文部省図書課の返信、3丁めは明治廿五年四月八日付の帝国大学書記官/和田垣謙三から文部省大臣官房/図書課長木村正辭殿に宛てた照会状である。
東京大学文書館デジタル・アーカイブ」ではもう1件、「文科大學雇赤堀又次郎書籍閲覧ノ為メ帝國博物館其他徃觀ノ件」がヒットする。印は「帝國博物館印」の朱文方印。

第二八七号
        文科大學雇
          赤堀又次郎
右者言語取調上當館收蔵之書籍閲覧/之儀地第三九一号ヲ以テ御照會之趣了承當/館ニ於テ差支無之候因テ此段及回答候也
 明治廿四年五月廿七日

         帝國博物館[印]
   帝 国 大 学
        御中


 従って、言語取調所の備付書籍と事業が明治30年(1897)9月に創設された国語研究室の管轄になったことで赤堀氏も国語研究室の助手と云う身分になったので、新卒採用の保科氏とは立場が違うと云うべきである。
 しかし『ある国語学者の回想』53頁6~7行め、

 赤堀又次郞氏が「国語学書解題目録」を作られたが、それに載っているもので、研究室に備え/付けてないものも相当にあるので、それを集めることに苦心した結果、‥‥

とは、いつの時点でのことなのだろう。赤堀氏は3月27日付(06)に見たように明治31年(1898)9月から文科大学講師になっているから、赤堀氏が助手だったのは1年間だったのだろう。(以下続稿)

*1:ルビ『ゼミナール 」。