深沢秋男は筆まめな人で、重友毅門下生で近世初期文芸研究会を結成し、年刊で「近世初期文芸」を刊行、晩年には同じ体裁で「芸文稿」と云う同人誌を刊行していた。その旁らネットでの情報発信も活発にしていた。最晩年には「近世初期文芸」「芸文稿」とも引継ぎ手を見付けてこれに委ね、両誌とも深沢氏歿後も続刊されている。
昭和女子大学が鹿島家櫻山文庫の国文学関係書目を購入した件についても「『近世初期文芸』第26号(平成21年12月25日発行)に/掲載したものの抜粋」を「深沢秋男雑録」の2016.09.26「昭和女子大学図書館 「桜山文庫」」と、「『芸文稿』第12号(2019年7月)に掲載」したものの一部改稿版を2019.12.02「昭和女子大学図書館所蔵 〔桜山文庫〕」に掲載している。後者は「深沢秋男の窓」にも2019年12月2日「昭和女子大学図書館所蔵 〔桜山文庫〕」として掲出されている。
深沢氏は桜山文庫の目録も翻刻紹介している。
・2017年1月4日「『桜山文庫目録 和書之部』(上)」
・2017年1月4日「『桜山文庫目録 和書之部』(下)」
(上)は「『近世初期文芸』第25号(平成20年12月発行)に掲載したもの」で(下)は「『近世初期文芸』第26号(平成21年12月発行)に掲載したものである」但し図版を割愛したり外字が●になったり?になったりしている。しかし検索には頗る便利である。
これは鹿島則文の孫で鹿島敏夫の子息の鹿島則幸が、昭和4年(1929)國學院大學卒業後に作成した『桜山文庫目録 和書之部』1冊を翻刻したもので「甲」から「癸」まで10部門に分けてある。その「壬」はさらに「丗一号」まで分けられているが、
三号
雑字類書 古写 一冊 (消、昭和四年四月廿五日、赤堀三子氏へ)
とある。やはり川瀬一馬の推測通り『文明六年本節用集』は桜山文庫の蔵書であった。そして昭和4年(1929)4月25日に赤堀三子、すなわち赤堀氏の妻に正式に譲渡されたことになっている。しかし、実態は『国語学書目解題』執筆等のために赤堀氏が借り出し、そのままになっていたのを、この目録編纂を機会に正式に叔母夫婦に譲ることとしたのであろう。『文明六年本節用集』に「櫻山文庫」印がないのは、鹿島則幸の目録作成に際して誂えた印だったからであろうか。
なお『文明六年本節用集』には赤堀氏の印記などはないが巻末に、反町茂雄も注意している双郭朱文方印「天下無雙」がある。反町氏はこの印の主に思い当たらなかったらしいが、『紙魚の昔がたり』にも度々名前の出る望南寺田廣業の印らしい。寺田氏についてはネット上に断片的な記述があるだけだが、国立国会図書館デジタルコレクションの刷新によりもう少々追加出来るかも知れぬので、別に探索して記事にすることとしたい。しかしどうやら、寺田広業→鹿島則文→赤堀三子(又次郎)→反町弘文荘→帝国図書館(国立国会図書館)という伝来になりそうである。
そして「五号」に17点あるうちの3~5点めに、
徒然草 刊 二冊 慶長十八年 (消、鹿島則泰氏へ) 「深川文庫」
仝上(徒然草)寿命院鈔 刊 二巻一冊 慶長六年 小野高尚書入(消、赤堀三子氏へ)
節用集 刊 二巻一冊 慶長十六年 (消、赤堀三子氏へ)
とある。譲渡されたのは以上4点5冊、鹿島則泰に1点2冊、そして赤堀三子に3点3冊である。『寿命院抄』と『節用集』は空襲で焼けてしまっただろうか、それとも「弘文荘待賈古書目」に出て何処かに収まっているだろうか。これも追々調べて見ることとしよう。
さて、赤堀未亡人のその後であるが、昭和21年(1946)11月15日に弘文荘に『文明六年本節用集』を売却したとき「蒲田の親戚の世話になって居ります」と言っていたが、どうもそのまま蒲田区(23区になってからは大田区)に落ち着いたらしい。
・『住居表示新旧対照表』南六郷一・二・三丁目/東六郷一・二・三丁目/仲六郷一・二・三・四丁目/西六郷一・二・三・四丁目(昭和41年10月1日施行(昭和41年5月31日現在調整)・東京都大田区・476頁+案内図)
421~460頁「仲六郷4丁目」の最初、「新」の「番」が「1」で「号」も「1」、「旧」の「町名」が「仲六郷4丁目」で「番地」が「2」の「氏名・名称」が「赤堀みつ」なのである。「摘要」欄は空欄で、不在の場合は「所在不明」と入っているから、このときまで「赤堀みつ」が仲六郷4丁目1番1号に所在していたことになる。或いは名義を書き換えていなかっただけかも知れないが、もし生存していたとすれば夫の死から21年後、満90歳になっていた。(以下続稿)