・若山家の関東大震災(7)佐藤歯科医院①大正後期
昨日の続きで一昨日紹介した竹内久雄書簡に見えた、竹内久雄の勤務先「福島縣桑折町/佐藤歯科」について、当時の状況を少々考証して見よう。
・齋 熊椎 編『現代の福嶋』大正七年五月二十九日印刷・大正七年五月三十一日發行・定價金參拾錢・齋熊椎(福島)・二+一〇五頁
五五頁2行め~六五頁3行め「當面の人物」として8人、最初の3人は写真入で紹介し、次いで数頁置きに全頁広告を挟みながら、六五頁4行め~七三・七六~八一・八四~八九・九二~九七・九九~一〇一頁「福島縣主要人物」として2段組み、その七三頁下段5~7行めに、
と見える。
本書は扉に「北 洋 齋 熊 椎 編」とあり、奥付には「著 者」と「發 行 人」に「齋 熊 椎」とある。住所は「福島市榮町四番地」である。
齋氏はその後、地方紙の社主になっている。『日本新聞年鑑』昭和十年版(昭和九年十二月三十日十三版発行・定價金參圓・新聞研究所・4+140+150+138頁)の第二編「現勢」の「府縣別社別實況」の38頁4段め~41頁3段め2行め「福 島 縣」に最初の3紙は大きな見出し、次いで18紙がやや大きな見出しで紹介されて合計21紙、その4紙め、39頁3段め20行め~4段め6行め、
日刊新福島 福島市置賜町九。/(電)九一九。個人經營。政友會。/昭和八年十二月五日創刊、縣内/政友會の機關紙。夕刊四頁。(部/數)九年九月一日現在七千部。/(社主)齋北洋。(社長)同。(編/局)伊藤彌太郞。(營部)高橋秀/三。(社員)二十二名。(工場員)/十二名。(機械)四六版一。一箇/【3段め】月三十錢。(廣告料)普通五十錢、/場所指定七十錢。(發行物)事業/部設置あり、年三回單行本を發/行。
■模擬市會、同縣會等を開會せ/り。
とある。――地方紙の社主となったためか、昭和十年代の『人事興信録』に名前が見えている。
・第十二版『人事興信録』上(人事興信所)
国立国会図書館デジタルコレクションにカラー画像が公開されている「人事興信録. 第12版上」再版に拠った。奥付には右に発行日が2段、上段「明治三十六年四月十八日 第一版發行/明治四十一年六月十八日 第二版發行/明治四十四年三月廿五日 第三版發行/大正四年一月十日 第四版發行/大正七年九月十五日 第五版發行/大正十年六月十五日 第六版發行/大正十四年八月五日 第七版發行/昭和三年七月十日 第八版發行」中段「昭和六年六月廿三日 第九版發行/昭和九年十月廿八日 第十版發行/昭和十二年三月十三日 第十一版發行/昭和十四年十月二十日 第十二版發行/昭和十五年一月二十日 再版印刷/昭和十五年一月廿五日 再版發行」とある。下段は囲みで「『第十二版人事興信録』/〈上下/二卷〉 定價金五拾圓」。
イ(ヰ)之 部(三四七頁)のイ二五七頁(281コマめ)4段組の4段め14~20行め、
齋 北 洋 〈日刊新福島社長/福島縣在籍 〉
(熊椎)
妻 たけよ 明二三、四生、宮城、鈴木靜姉
女 榮 子 大一三、五生
宮城縣齋恒太郎の三男にして明治二十七年一月出生/し後兄二郎方より分家す日刊新福島社長たり(福島/市福島置賜町)
とある。娘の「榮子」は当時『現代の福嶋』と同じ榮町に住んでいたからだろう。前後の版の内容も字配り程度の異同しかない。
しかしこの齋氏、そして「日刊新福島」も今は完全に忘れ去られた存在である。
さて、福島県伊達郡桑折町の佐藤歯科医院は、もちろん佐藤氏が開業したのであろうが、佐藤氏の死去後、佐藤未亡人が日歯専(日本歯科医学専門学校)の卒業生をスカウトして、設備の整った自院で院長として勤務させながら技術面・資金面で独立開業を支援する、と云う形で経営していたようだ。
昨日見た『日本醫籍録』第二版の「二、醫籍本文」の「齒科醫師之部」、「福島縣」六頁のうち三頁(75コマめ)2段め4行め~4段め9行め「伊 達 郡」に14人挙がるうちの5人め(2段め19~22行め)、
武 見 彌 八 郎 桑折町本町
明治卅年六月廿三日生/大正十五年日本齒科醫專卒同年現佐藤齒/科醫院ニ勤務
とある。
「山形縣」四頁のうち一頁3段め18行め~二頁1段め7行め「米 澤 市」11人のうち4人め、一頁(81コマめ)4段め5~9行め、
金 子 繁 雄 門東町二九九四
金子齒科醫院 明治廿八年八月卅一日生/日本齒科醫専卒大正十年[登]七〇八七號 /卒後福嶋縣桑折町佐藤齒科醫院勤務同十/一年十一月現地開業 趣味銃獵大弓
と見えるのは時期的に竹内久雄の前任者と云うことになる。
「東京府」七五頁のうち一〇頁3段め23行め~一三頁4段め26行め「京 橋 區」84人のうち72人め、一三頁(11コマめ)2段め26行め~3段め1行め、
宮 地 清 西仲通五ノ二
宮地齒科醫院 明治廿七年六月四日生/日本齒科醫專卒大正七年[登]四四五三號 /大正十年十月月島西仲通ニ於テ開業十二/年十月福島縣桑折町ニ開業十五年五月現/地開業 趣味魚釣音樂
とあって、金子氏の前任者と云うことになりそうだ。この宮地氏のことは震災前の、次の本にも見えている。
・『福島誌上縣人會』大正十二年三月十五日初版發行・大正十二年三月廿五日再版發行・特製實費 金拾貳圓/並製同 金 八 圓・福島縣友會出版部・五+10+口絵+462頁
福島県に所縁のある各界で活躍する人物を紹介したもので、1頁に2人ずつ取り上げているが排列に決まりがあるのかどうか、どうもよく分からない。288頁右、1行めに12字下げでまづ「日 本 齒 科 醫 學 士 宮 地 清 君」との見出し、以下2~8行め本文、
人の社會に生存する所以のものは、唯だ自身の爲めのみに非ずして、同時に他人の利益と幸福とに/資せんが爲めなる事を忘却すべからず、我が宮地清君の如きも或る天帝の使命を齎らし、社會人類の/濟世事業を主眼とせる緊要の責任を佩びて世に出でしものなる哉、君は士族宮地寳三郞氏の長男にし/て、明治二十七年六月四日を以て、府下大森町谷戶に生まる、幼時旣に機才あり、普通學修了後財團/法人日本齒科醫學專門學校に入り、大正七年七月優秀の成績を以て卒業す、曩に福島縣安達郡桑折町/佐藤齒科醫院醫師たりしが、同十年十月現所に開業し、懇切熱誠患者の診療に從事し以て今日に及べ/り、趣味を藝術に有し、鱈の干物を最も好物とせり。(京橋區月島西仲通五ノ六番地)
さて、一昨日紹介した竹内久雄書簡の「月島にみえる娘さん両人」は、宮地氏の月島での開業に合わせて1人が嫁ぎ、もう1人は姉夫婦の許に下宿して東京の学校に通っていたものか。しかし震災で全てを焼かれてしまい妻の実家に身を寄せて『日本醫籍録』には「桑折町ニ開業」とあるけれども佐藤歯科医院に勤務していたのではないか。『福島誌上縣人會』に見える経歴からも特に桑折町に縁がある訳でもなさそうで、地元で名の知られていた歯科医院の婿になっていたから、と云うのが特に取り上げられた理由のように思われる。そして大正13年(1924)11月の竹内久雄の独立開業を見送ってからもしばらく勤め、大正15年(1926)5月に武見彌八郎を後任に迎えて再度月島に開業したのであろう。そうすると、判明している限り、福島県伊達郡桑折町の佐藤歯科医院は大正の後半「久保→宮地→金子→竹内→宮地→武見」の如くに、久保氏のことはまだ調べが付いていないが、宮地氏以降の4人は日本歯科医学専門学校を卒業した歯科医師を迎えて経営を続けていたことになる。
福島県伊達郡桑折町には東日本大震災前に、別に何の用事もないのに行ったことがあって、別に何もせずに帰って来たのだが、当時知っていたとしても調べようがなかった訳で、まあ、どうしようもない。(以下続稿)