昨日は以前借りたときには気付かなかった訂正シールに気付いてその確認なぞをしてしまった。――こんなのはまぁ詰まらない間違いの確認に過ぎないが、大きな変化のあった場所を詳細に見て行くと、昔の夏休みの自由研究くらいには十分なりそうだ。そして今の東京が②新書判や①文庫版に比べて、いや③B6変型判に比べても、如何に詰まらなくなっているか、――歴史も地形も無視して高楼を矢鱈とおっ立ててイキッて見せた、緑に乏しい、魅力に乏しい街に成り果てたかが分かるであろう。大阪万博と云い、もう妙なものを建てたがるのは好い加減にしてもらいたい。しかし大手マスコミは見事なまでにこういう開発の提灯持ちしかしなくなった。人口も減り空き家だらけの中で、株で儲けた政策的な富豪たちが高楼を建てて住まっている、何とおぞましい光景だろう。しかし困ったことに、私の両親は高楼が好きで、私を食事に誘っては高楼の最上階のレストランが行きつけだとか云うことを自慢したがる。悪いけど不肖の伜は、そんなところにあるサントリーのレストランなんかに行きたくないです。と思いつつ、親孝行な私(!)は黙って御相伴に与っているのだけれども。
・小塚原刑場(2)
それでは昨日の前半の続きで、②新書判『上』下町の247~270頁「日光街道と葛飾・江戸川」は7節から成るが、249~254頁25行め「1 千 住」は、249頁2行め~「小塚原回向院*1」252頁13行め~「千 住 の 宿*2」の2項から成る。①文庫版『下』は「一 三ノ輪・千住」と題して1項め(63頁2行め~65頁2行め)は「浄 閑 寺*3」から「日 光 街 道」の章を始めていたのだが、本書では171~210頁「浅 草」の章の203頁22行め~210頁「5 吉 原」の節の1項め(203頁23行め~205頁4行め)に移されている。
それはともかく、249頁2行め、2行取りで「小塚原回向院*4」と題して、2字半くらい開けてやや小さく割書「▼荒川区南千住5―33〈→[地]p.248,250〉/▼地下鉄日比谷線,常磐線南千住駅下車1分」とある。――①文庫版では「国電」のみであったのが地下鉄が先になっている。[地]は黒い正方形に白抜き。
それでは本文の初めの方 1/3 程を抜いて見よう。3~23行め、
南千住駅(日比谷線南千住駅南口が便利)を出る。このあたり一/帯は,江戸時代に罪人を処刑した小塚原のお仕置場(刑場)跡で,/当時は「こつかっぱら」と呼ばれていた。江戸時代のお仕置場は,/品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の2ヵ所にあった。小塚原の場合は,/間口60間余(約108m)・奥行30間余(約154m)で,明治の初年に/刑場が廃止されるまでに,約20万人が磔・斬罪・獄門などに処せら/れたといわれている。*5
日比谷線の高架わきに,延命寺(浄土宗。南千住2―34)がある。/この寺は小塚原回向院の別院であったが,1982(昭和57)年分離・/独立した。寺名は境内の延命地蔵(通称首切地蔵)にちなんでい/る。延命地蔵は,刑死者の菩提をとむらうため1741(寛保元)年に/造立された。元は貨物線の南側にあったのを現在地に移したもので/ある。*6
旧日光・奥州道中(コツ通り)を横切る/常磐線の高架をくぐると,左側に小塚原回/向院(浄土宗)がある。刑死者・牢死者・/行倒れの屍体は両国の回向院(墨田区)に/埋葬されてきたが,1667(寛文7)年両国/回向院の住職義親上人が幕府に願い出て,/別院として一寺を建立した。これが小塚原/回向院のおこりである。小塚原の刑場が廃/止されるまで数万人もの人が葬られている。*7
15~28行めは右側に「延 命 地 蔵」の写真が掲載されているので1行の字数が少なくなっている。
やはり「鈴ヶ森と‥‥小塚原の2ヵ所」なのである。
刊行当時存在しなかった延命寺の辺りの記述は①文庫版『下』では「小塚原回向院」項の3段落め、記念碑や墓石を列挙した2段落めに続いて、66頁12~16行め、
門をでて常磐線の線路の横に、刑場のむかしをしのぶ延命地蔵、一名〝首切り地蔵〟がある。/高さ四メートルの稚拙な石地蔵で,一七四一(寛保元)年造立されたもの。その前に元禄・享保の/年次(一八世紀前期ころ)のきざまれた墓塔がならび、さらに元禄一一(一六九八)年ときざんだ南/無妙法蓮華経のお題目の碑がある。もと南千住駅の南方にあったのを一八九五(明治二八)年現在/地にうつしたもの。
とあって、写真はない。(以下続稿)