瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』(14)

・板橋刑場
 ①文庫版『下』43~60頁「中山道岩槻街道」は45頁~「一 巣鴨界わい」49頁5行め~「二 板橋宿と川越街道」55頁5行め~「三 岩槻街道」の3節、その「二」節めは49頁6行め「板 橋 宿」51頁~「志村一里塚*1」52頁9行め~「松月院と赤塚城跡*2」53頁15行め~「茂 呂 遺 跡*3」の4項、板橋刑場については「板 橋 宿」の項の最後の段落(50頁13~18行め)の冒頭、

 板橋駅北区側出口、板橋宿入口にあたるところに近藤勇土方歳三の墓碑がある。ここは勇が/一八六八(明治元)年四月斬首された板橋刑場のあたりだ。‥‥*4

と「宿」の「入口」なのだから「散歩」の順序からしても「板橋宿」の最初に触れても良かったと思うのだが、これでは極軽い、全くの付けたり扱いである。
 ②新書判『中』山手187~206頁「中山道と川越街道に沿って」は189頁~「1 巣鴨界わい」192頁5行め~「2 板橋から板橋本町へ」195頁25行め~「3 志村坂上界わい」199頁23行め~「4 川越街道に沿って」の4節で、1節めは①文庫版『下』の「一 巣鴨界わい」、そして2~4節めは「二 板橋宿と川越街道」で、「三 岩槻街道」は169~186頁「岩槻街道に沿って」と独立した1章になっている。
 「2 板橋から板橋本町へ」は2項、その大半(192頁6行め~195頁)が「板 橋 宿 跡*5」で、まづ1段落めににはなかった板橋宿の概要を述べ、続く段落(193頁5~9行め)に、

 埼京線板橋駅東口を出ると駅前広場のむかい側に幕末の新選組局/長近藤勇の墓(1834~68,北区滝野川7―8)がある。板橋の平尾/宿には江戸時代の三大処刑場の一つがあり,千葉県の流山*6で捕らえ/られた近藤勇はこの地で処刑された。1925(大正14)年,中山道の/改修にあたり,刑場わきにあった墓地も現在の所に移った。

とある。これにより昭和63年(1988)に「板橋刑場」を小塚原・鈴ヶ森と並ぶ「三大処刑場」と位置付ける向きがあったことが分かる。なおこの項、には全く写真がなかったが、193頁左上に「近藤勇の墓碑」その右に「宇喜多秀家の墓碑」そして194頁左上に「「板橋」に地名起源である板橋」の写真が掲出されている。
 ③B6変型判『中』山手27~48頁「中山道と川越街道に沿って」の章はと同じく4節、34~37頁「板橋宿から江戸の面影をたどる」の節は34頁4行め~「板橋 宿 跡 *7」36頁29行め~「智清寺 *8」の2項はに同じ、37頁上23行分は「板橋の名所「板橋」と「縁切榎」」の囲み記事。
 近藤勇の墓についてはやはり「板橋宿跡」の2段落め(34頁15行め~35頁2行め)に、

 JR板橋駅東口をでると,駅前ロータリーの向かい側に,幕末の/新選組局長近藤 勇 の墓がある。徳川政権が崩壊した翌年の1868年,/近藤は甲陽鎮撫隊を組織し,新政府軍に最後の抵抗を試み,千葉の/ 流 山で捕らえられ,この地で処刑された。墓碑は1876(明治9)年,/*9【34】元新選組隊士永倉新八*10の尽力/により建立させた。

とあって34頁下左に「近藤勇の墓」の写真。なおその右の写真「東光寺六道利生地蔵尊」は②にはなかった。
 この2005年刊行のに至って①②にあった「板橋刑場」の呼称が消えている。確かに板橋刑場については近藤勇の斬首以外の話題を全く聞かないようである。そのことに気付いた人がここら辺りで板橋刑場の存在そのものに疑問を呈するような見解を提出したことで、板橋刑場を話題にしづらい雰囲気が醸成されるとともに、余り使用されてはいなかったものの何時しか一人歩きし始めていた「三大刑場」と云う言葉に、板橋刑場に代わってうっかり大和田刑場が滑り込んでしまったのではないか、と疑って見るのである。(以下続稿)

*1:ルビ「しむら 」。

*2:ルビ「しようげついん」。

*3:ルビ「も  ろ 」。

*4:ルビ「いさみ ひじがたとしぞう/ざんしゆ」。

*5:ルビ「いた ばし じゆく」。

*6:ルビ「ながれやま」。

*7:ルビ「いたばしじゅくあと」。

*8:ルビ「 ち せい じ 」。

*9:ルビ「/こんどういさみ・とくがわ/こうようちん ぶ /ながれやま」。

*10:ルビ「ながくらしんぱち」。