昨日の続きで③B6変型判『上』下町の記述を見て置こう。
・小塚原刑場(3)
②新書判『上』下町は7章から成り、「皇 居」「皇 居 周 辺」「日本橋・銀座」「上野の山周辺」「浅 草」「江 東」「日光街道と葛飾・江戸川」の順に排列されていたが、③B6変型判『上』下町は「皇居」「皇居周辺」「上野の山周辺」「日本橋・銀座」「日光街道と葛飾・江戸川」「浅草」「江東」の順に変更されている。
③B6変型判『上』下町151~176頁「日光街道と葛飾・江戸川」は8節から成り、154~159頁「➊日光・奥州道中の初宿千住」の節は3項、154頁4行め~「小 塚 原回向院 ➊*1」156頁2行め~「円通寺 ➋*2」157頁10行め~「千住 宿 ➌*3」と、項ごとに番号が打たれているがこれは章全体の通し番号になっていて、この章で20まで。「円通寺 ➋」は②新書判『上』の「小塚原回向院」の後半部分(251頁15行め~252頁12行め)を独立させたもので、①文庫版『下』の「浄 閑 寺」の後半(64頁9行め~65頁2行め)に当たっている。
154頁4行め、見出しの下に黒で小さく市外局番から電話番号を記載している。そして3字分空けて赤の割書で「〈M▼P.152, 155〉荒川区 南 千住5-33-13/JR常 磐線・地下鉄日比谷線南千住駅■すぐ*4」とある(▼は右向きで細い。■は人が左を向いて歩いている姿に白く抜いて「徒歩」を示す)。5~12行め、埋葬者を列挙し始めるまでを抜いて置こう。
南千住駅南口一帯は,江戸時代には品川の鈴ヶ森とともに,罪人/を処刑した小塚原の仕置場(刑場)跡であった。規模は間口60間余/(約109. 1m)・奥行30間余(約54. 5m)で,明治初期までに約20万人/が処刑されたといわれる。日比谷線の高架脇に延命寺( 浄 土宗)が/ある。もともと小塚原回向院別院だったが,1982(昭和57)年分/離・独立した。境内の延命地蔵は,江戸時代には首切地蔵とよばれ,/刑死者の供養のため,1741(寛保元)年に造立された。明治の鉄道敷/設前は線路の南側にあった。*5
北の 常 磐線の高架をくぐると,左手に小塚原回向院(浄土宗)が/ある。本所回向院(墨田区)は,刑死者・牢死者・行倒れの死者など/を埋葬してきたが,1667(寛文7)年に住職義親 上 人が江戸幕府に/願いでて,当地に別院を建立したのが始まりである。‥‥*6
写真は154頁左下(14行分)に、大きな涎掛けを付けた「延命地蔵」を正面から大きく撮した写真。文章は②新書判『上』の文章の無駄を切り詰めたものとなっている。ここでも「江戸時代には品川の鈴ヶ森とともに」と云うことで「三大刑場」なる呼称も登場しないのである。(以下続稿)