瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(12)

 現在、大和田刑場が江戸三大刑場だと広めている、主要な発信源の1つとしては、Twitter(X)の Tweet(Post)が指摘出来そうです。
 「三大刑場」に「大和田刑場」を含めた Tweet は、HN「多田野文タイBOT(@bun_kei_tai_bot)」の2012年9月9日の次の投稿が(現在閲覧出来るものでは、と云う条件付きですけれども)最も早いものとなっております。


「X」については今後どうなるか良く分かりませんので文字情報の引用もして置きましょう。「<手動>New!Q.江戸時代に大和田、鈴々森と共に三大刑場と言われた、東京都荒川区にあった刑場は◯◯◯刑場?A.こづかっぱら」。2012年9月13日に「こづかはらでも正解だそうです。情報提供ありがとうございます」と正解を追加した投稿がなされ、以後「A.こづかはら、こづかっぱら」でしばらく繰り返し投稿されております。2014年になるとHN「QMA文タイbot(@typing_qma)」がこの問題を頻繁に投稿するようになります。
 次いで、HN「れぷとん@心霊スポット最前線(半bot)(@lepton0726)」が、2013年9月21日に「#今日の心霊スポット【No.0249:鈴ヶ森刑場跡】東京都品川区南大井にある処刑場跡。小塚原刑場、大和田刑場と共に江戸三大刑場と呼ばれ、220年間で10~20万人が処刑されたと言われる。「多種多様な心霊現象が起こる」という噂がある。」と、鈴ヶ森の写真ですけれども、とにかく写真入りで大和田刑場について触れていて、これが2014年7月になると、それぞれどういう関係なのだか、HN「【閲覧注意】マジで入ったらアウトな場所(@hairunakiken)」HN「!閲覧注意!(@etsuran_tyuui)」HN「【閲覧注意】まとめ(@etsuran_chuui)」HN「マジで入ってはいけない危険な場所(@hairuna_kiken)」と云う複数のアカウントが、同じ写真で全く同内容の投稿を繰り返すようになります。
 どうもこれらの投稿が繰り返される中で、従来全くと云って良いほど話題に上らなかった「大和田刑場」が、そして、やはり殆ど行われていなかった「江戸三大刑場」なる呼称が、何となく定着して行ったかに見えるのです。
 これらのうちHN「QMA文タイbot(@typing_qma)」とHN「マジで入ってはいけない危険な場所(@hairuna_kiken)」は今年も同じ内容の投稿を行っておりますが数は激減し、代わってそれ以外のユーザーによる投稿での言及が増え、中には大和田刑場の跡地を探し歩いている人までおるのです。余り成果は上がっていないようですが。
 と、Twitter だけ観察すると以上のような筋が引けるのですが、当然のことながら Twitter のユーザーが勝手に言い始めたこととは思えません、何らかの根拠があるのでしょう。しかしながら、前回見たように国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索機能では「三大刑場」が1件しかヒットしないのです。それも小塚原、鈴ヶ森、板橋の3箇所です。国立国会図書館蔵書の全てが国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている訳ではありませんが、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている2000年までの文献にしてもかなりの量がある訳で、それで1件しかヒットしないと云うのはやはり妙です。それとて大和田刑場を含めていないもので、いえ、そもそも「大和田刑場」が1件しかヒットしないのです。
 が、大和田刑場については調べ方を工夫することで、幾つかの情報を引き出すことが出来ました。
 しかし「三大刑場」については、2000年までは全く云われていなかったから、まるでヒットしないのではないか、としか思えないのです。小塚原・鈴ヶ森の「二大刑場」であれば昭和20年代から多くはありませんがコンスタントにヒットします。
 そうすると今世紀に入ってから、かつては全く云われていなかった「三大刑場」が喧伝されるようになった、と想像されるのですが、2001年以降、Twitter が普及するまでの期間になると、まだ国立国会図書館デジタルコレクションに入っておりませんので、甚だ探しづらい。この期間に投稿されたとされるネット情報がヒットしない訳ではないけれども、それが本当に日付通りに公開されたものだか、確証が持てません。
 そうなるとやはり信が置けるのは出版物と云うことになるのですが、やっと次の大学紀要に大和田刑場を含めた三大刑場の記述があることが引っ掛かりました。
「東京成徳短期大学 紀要」第44号(2011年3月・東京成徳短期大学・86頁)53~73頁、山下琢巳「本学蔵東海道関係浮世絵(三)日本橋から品川宿」の、60頁9~16行めに、

 東海道に出た騎馬のオリファント一行は、日本橋とは反対方向に進み、品川宿を通り越し、/浜川橋を渡って鈴ヶ森刑場に至る。この大井村の先にあった刑場は、慶安4年(1651)に、/由井正雪の乱に関係した丸橋忠弥らを処罰したときに設けられたとされ、閉鎖は、明治4年/(1871)。「南無妙法蓮華経」と記した髭題目の石碑が、火炙り用の鉄柱や磔用の木柱ととも/に聳えていた。隣村の不入斗村の鈴ヶ森八幡宮に近接していたので、鈴ヶ森の御仕置場と呼/ばれる。江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)/沿いに設置されていた八王子の大和田刑場(または中仙道の入口の板橋刑場とする説もあ/る)とともに、江戸三大刑場といわれた8)

とあるのです。――あ、と思って勇んで(!)66頁17行め~68頁【注】を見たのですが、67頁11~15行め、

8) この刑場について『新編武蔵国風土記稿』(昌平坂学問所地理局編、文化7年・1810~文政11/ 年・1828成稿)には、次のようにある。
    浜川町より南の方にあり。慶安四年より此所にて一段二畝の地を刑罪場と定められたり。/   前面の海岸に老松一株あり。故に土人一本松獄門場と云。又鈴ヶ森獄門場ともいへど、鈴ヶ/   森の地は隣村不入斗村に属して当村に係らざれば、此唱へは里俗の訛りなり。

とあって「江戸三大刑場」に関する補足ではなくて、残念ながら(?)「鈴ヶ森」の呼称についての補足の注でありました。出来れば2行前の文末に「8)」として欲しかったところです。それにしても小塚原・鈴ヶ森に比して、大和田のみ「江戸」の範囲を大きく逸脱しているとの印象は拭えません。
 とにかく、2001~2011年の間で、小塚原刑場もしくは鈴ヶ森刑場について説明した文献に見当を付けて、もう少々探って見たら何か出て来るのではないか、と思うのです。(以下続稿)