瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(16)軍事郵便⑤

 朝日出版社の封筒に纏めてあった、伯母宛の祖父からの軍事郵便について、昨日までで葉書(12通)を済ませたので、今度は残りのものを見て行くこととしよう。
 これら便箋は母親である祖母宛の書簡に同封してあったのだろう、封筒はない。よって日付がなければいよいよ内容から時期を推測するしかない。
 整理のために仮に番号を、葉書からの通し番号で打って置こう。
・(吉田)アキコ/マコト宛便箋【13】
 B5判の14行罫紙2枚。

コノアヒダ ハ オテガミ ヲ アリガタウ /ウンドウ カイ ノ トキノ シャシン モ シヤシンヤ/サン デ トツタ シャシン モ ミマシタ アキコ /モ マコト モ トテモ ゲンキ サウ デ ヨロコン/デ ヰマス シャシンヤ サン ノ ホウ ハ タイヘン/オホキク ナツテ コレナラ コクミン ガツコウヘ/ユケマス ネ
フタリ トモ オカア チヤマ ノ イフ コト ヲ ヨク/キイテ オリコウ ニ シテヰル ソウ デ ホメテ/アゲマス コノアヒダ ハ テルチヤン ヲ オモリ/シテ ナガイ アヒダ オルスバン ガ デキタ ソウ/デ カンシン デス. コノ キャラメル ハ オトウサン/ガ ハイキュウ デ モラツタ ノ デ スガ ゴホウビ /ニ アゲマス. ヱヲカイテ アゲヨウ ト オモツテ ヰル/【1枚め】ガ イソガシイ ノデ カケマ セン カラ ケフ ハ /ヱハガキ ヲ イレテ オキマス ドウイフ ヱ*1カ/ハ オカアチャマ ニ オシエテ イタダキ ナサイ./サムイ トキ デ カゼ ヲ ヒク ト タイヘン ダ /カラ オカアチャマ ノ イヒツケ ヲ ヨク キイ テ/サムク ナイヨウ ニ シナイ ト イケマ センヨ. /オトウサン ノ ヰル ホウ ハ イツデモ アツイ ノ/デ イマデモ ハンソデ ノ フクデス. コドモ ハ/ハダカ デ アソンデ ヰマス. オトウサン ハ ゲン/キ デス カラ シンパイ セヌ ヨウニ.
                 サヨ ナラ
               オトウサン カラ
 ア キ コ
 マ コ ト
     ヘ


 時期であるが【6】より少し前ではないか、と思う。①「国民学校へ行けますね」とあるから伯母が昭和19年(1944)4月に国民学校に入学する、前年度のものらしい。②東京について「寒いときで風邪を引くと大変」とあるが任地は「いつでも暑いので今でも半袖の服です」とあるから、時期は秋、冒頭「運動会のときの写真」と云うのも、何処の運動会か分からないがやはり秋らしい。
 そこで【6】の「こちらも少しは涼しくなりました」の少し前かと思ったのだが、そうすると昭和18年(1943)9月、漢口から出されたものと云うことになる。しかしその場合「寒いときで」と云う表現が引っ掛かる。断定は避けてなお考えるべきだろう。
 なお、9月30日に漢口を出発してから、どのような経路で、いつ東京に戻って来たのかは、履歴書からは読み取れない。(1月4日。以下続稿)

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 関東大震災の書簡の紹介が中断した理由は、調べが面倒で余裕がなくなったのが主因なのだが、家人がこんな個人情報を公開してしまって良いのか、と心配して、何かと止めさせようとして来た影響もある。それもあってしばらく当ブログ本来の、瑣事を論うことにしたのだった。そうすると、あれほど祖母の遺品の片付けを進めるよう責っ付いていたのに何も言わなくなった。それほど個人情報が気になっているらしい。しかし、出て来るのは震災を体験した人たちだから、祖母を最後に死に絶えている。もう何処にも保護すべき個人情報はない。
 今度の、軍事郵便に関しては、差出人の祖母の夫と、宛名の伯母は死んでいるが、文面に見え宛名に見える家人の父は生きているから、そこに問題がない訳ではない。ただ、家人の父には祖母の蔵書・遺品の整理について直接委託されているから、問題ないだろう。
 いや、こうして読解作業をしているから意味があるので、何もしなければ古びた紙束である。古本屋はこういうものも買うのだろうか。しかし、古本屋からこれを買った人は、或いは軍については私よりも詳しく読み解いてくれるかも知れないが、個人的な事情――家族関係について他の資料と照らし合せて確認する作業は、私にしか出来ない。そして、いつ、古くは関東大震災、米軍の空襲、新しくは三陸津波糸魚川の大火、そして能登半島地震のようなことのために失われるか分からない。史料編纂所とか国文学研究資料館とか、原本を蒐集するのではなく写し(マイクロフィルム)を蒐める機関を国が作ったのも、副本を作って安全な場所に保管して置けば、原本が失われても内容は永久に保存することが出来るからであった。
 今、私はただ、祖母や伯母の遺品をきちんと整理して置きたい、そのためにはもっと祖母や伯母のことを知る必要があるので、細かく点検しているまでで、これを何かに活用しようとか云う計画(野望?)もない。ただ、カラー画像で多くの人の目に触れるところに写しを保管して置けば、半永久的に、仮に原本が失われても、参照可能な状態にして置ける、と思ったのである。繰り返して云うが、何もしなければただの紙束である。永久に保存出来たとして、それでは物理的に存在するだけに過ぎない。
 しかし、それにしても、最近の、一緒に写っている人の顔を全て暈かしてしまうのはやり過ぎではないか。それを見て一緒に写っている人が顔を出しても良いと申し出ても*2、死んでしまって保護する必要がなくなっても、もう戻せない。そうすると一部隠された状態で広まり、下手をするとその状態のものしか残らなくなる。――保護期間が過ぎた後に暈かしのない状態に戻せるようにして置かないと、明治・大正・戦前の写真は全て明瞭なのに、戦後の日本の風景は暈かしだらけのものしか残らなくなるだろう。本当に何とかしてくれ。もうそこまで法律を適用しなくても良いだろう。どうしてこの不都合に配慮しないのだ。逆に、AIで簡単に捏造もできてしまう。――このままでは松本清張の、たまたま写ったとかで秘事に気付かれてしまうとか云う設定も、そのうち分からなくなるのではないか。いや、そのための個人情報保護なのか。いやいや、そんなものを保護しなきゃいけないのか。いや、それはともかく、しかし一昨日・昨日の「テレビ朝日開局65周年記念/松本清張 二夜連続ドラマプレミアム」は、もう少し何とかならなかったものか。リメイクされる度に酷くなる「砂の器」を作り続けていることにも呆れているが、どうして今更松本氏原作のドラマを作りたがるのだろう。いや、期待していなかったから点けていたと云うまでで真面目に見ていなかったから、風呂を洗ったり茶を沸かしに行ったりで細かいところがちょいちょい飛んでいる。しかし妙にそぐわない新しい設定を捻じ込んでいるのに「田鶴子」とか「郁子」とか、私の女子高講師時代に既に教員にもいなかった名前をそのままにしているのはどういうことだ。「砂の器」をハンセン病で作れなくなっているように、そんな条件が何処からか出されているのだろうか(1月5日)。

*1:「ワケ」を抹消して右脇に書き入れ。

*2:出してもらっても構わないと思っている人だって少なくないだろう。例えば、有名人と同じ舞台に出ていたとか、大会に出場していたとか、もっと薄い関係で同じ学校に通っていたとか云う程度であっても、一緒に写った写真や映像を記念に思っていた人もいるだろう。或いは、自分の顔が白もしくは黒塗りにされたことを不快に感じる人もいるだろう。しかしそれ以上に法律が優先するのだから、それに合わせろと云うのであれば、仕方ない――とは、私には思えない。なるべく加工しない形で残すべきだと私は思っている。