瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(12)軍事郵便①

 昨年の9月1日からしばらく、仏間の簞笥の上にあった紙箱に入っていた、関東大震災当時、東京に下宿していた3人の兄と親戚等から、朝鮮羅南にいた祖母の両親と3人姉妹に宛てた葉書や封書を紹介した。しかし、祖母に聞く訳に行かぬし、家人の父も、祖母の兄たちのこと等はよく覚えていないらしく、更に祖母の母の弟や妹のことになるともう全く分からないと云うので、住所・氏名・文面を一々調べながら、確認していかないといけない。それが手間で一旦離れるつもりが随分離れてしまった。続きを上げようとは思うのだが、どうも億劫で別の課題に着手して見ようと思ったのである。
 仏間の簞笥の上にはもう1つ漆塗の葛籠(文箱)があって、これには祖母の夫・𠮷田清からの葉書・封書が詰まっていた。
 これも分量が少なくなく、中々整理が厄介そうなのだが、その手始めとして、一番上にあった「朝日出版社」の「Catalogue・1993」の「吉田 映子  先生」宛封筒に、朝日出版社の出版目録の代わりに仕舞い込まれてた、𠮷田清から長女映子に宛てた軍事郵便の葉書や便箋類を整理して置こう。

 朝日出版社は語学を主とした出版社で、当時、当ブログでは2018年4月28日付「深作欣二監督『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1)」に触れたことのあるヘアヌード写真集『Santa Fe』も出していたのだけれども、看護短大の語学の教授だった伯母には教科書のカタログを送っていたらしい。住所は都営住宅で、祖母が抽選に当たって住み始めたのを伯母が引き継いで死ぬまで住んでいた。
 何故か戦後の写真が2つ混ざっていたのだが、そのうちの1つ*1に、鉄棒に腰掛けている若き日の伯母と、鉄棒に凭れて立っている祖母が写っていた。背後が都営住宅の部屋なのだろうか。

 家人の祖父、私からすると義理の祖父に当たる𠮷田清はサイパンで戦死しており、祖母からは幾らか思い出話を聞くことが出来たが、余り詳しい話は聞いていない。よってその経歴に関しては、ネットでアクセス出来る断片的な情報を目にしただけである。
 すなわち、昭和7年(1932)7月11日に陸軍士官学校本科を卒業(第44期)しており瀬島龍三と同期、そして陸軍大学校には昭和14年(1939)12月13日入校、昭和16年(1941)12月5日卒業の第55期である。工兵少佐から中佐に進み、最後は第31軍参謀としてサイパン昭和19年(1944)7月18日に戦死した。
 そうするとこれら「中支派遣」先からの軍事郵便は、昨日確認した伯母の生年月日・昭和12年(1937)11月27日からしても、陸軍大学校入学前ではなく卒業後、昭和17年(1942)頃のものとなりそうである。
 日付もないので順序はよく分からない。こうやって記事にして検討するうちに分かって来るかも知れない。よって今は端から順に取り上げて行くこととする。ただ、何の目当てもないと整理する上で混乱を来すので、飽くまでも整理の都合上、仮に番号を打った。
・吉田アキコ宛絵葉書【1】


 絵葉書で、その写真と俳句からして、やはり春のものだろうか。
 宛名は「東京市目黒区/駒場町八〇一/𠮷田清方/吉田アキコ様」で差出人は「中支派遣/呂第五五〇〇部隊/𠮷田 清」である。「濟閲檢」欄には朱文円印「松永」。宛名の下半分、橙色の横線に「廠  本  品  需  軍  陸」とあってその下が通信欄になっている。「オテガミ アリガトウ/トテモ ジョウズ ニ ナリマシ/タ.アキコ モ ゲンキデ/アソンダリ、オソウジシタ/リ、テルチヤン ノ オモリ/ヲシタリ シテヰルソウデ/オトウサン モヨロコンデ/ヰマス.ソウユウ コ ガ/イイコドモデス.オト/ウサン モ ゲンキデヰマス./マタオテガミ アゲマス/サヨナラ」日付はない。インクはブルーブラック。通信欄の下にはごく小さく橙色で「・行印所刷印版色原村光社會式株・」とある。
・吉田文江宛昭和17年十二月廿九日付葉書【2】
 これのみ祖母宛のものが混ざっていた。入れ間違いかも知れないが一応ここに取り上げて置く。


 宛名は「東京市目黒区/駒場町八〇一/吉田文江様」で差出人は「中支派遣/藤㐧六八六一部隊/𠮷田 清」で「十二月廿九日」と添える。差出人の下半分に重ねて赤文方印「濟閲檢|藤第六八六一部隊|陸軍大尉/富田一夫」その右下脇に「富田」の朱文円印。
 通信面は以下の通りで、祖母が語っていた夫の文才を窺わせる。

あと二日で陣中の迎春ですが
    かへりみる勲もなくて年暮るゝ
    かへりみる陣の一年風のごと
    陣守りて年の暮とてなかりけり
    奉公に去年今年なし聖戰で
かやうな年の暮です 相変らず元気です.文江の方は
    子等守りて歳晩の事なかりけり
    年越や炬燵取卷く子の笑顔
    年越や子に歳聞かす置炬燵
かやうな年の暮と思つて居ります.お年玉に先日七〇米
送つて置きました.ではこれで今年のお終ひにします
    行年や今更憶ふ國の巨歩
    光輝満ちて行くや昭和の十七年 御芽出度う


 お年玉の「七〇米」とは何か。「ヒロ米」のような気もする。知らんけど。
 それから昭和十七年が「光輝満ちて行く」のか、「昭和十七年」が来て「御芽出度う」なのか。これはゆっくり考えることにする。(以下続稿)
追記】家人の妹が履歴書(軍歴証明書)を取得していたことを知って、参考資料として活用させてもらうことにした。細かいことは追々述べることにするが、差当り【2】は昭和17年(1942)の年末であることが確定出来たので、見出しに年を補って置いた。

*1:裏に鉛筆で「8」と書き入れてある。