瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(14)軍事郵便③

・吉田映子宛昭和18年秋)絵葉書【6】


 宛名は「東京都目黒区/駒場町八〇一/𠮷田清方/吉田 映子 様」で差出人は「中支派遣/呂第五五〇〇部隊/𠮷田 清」。「濟閲檢」欄には朱文円印「塚本」。宛名の下半分、橙色の横線に「廠  本  品  需  軍  陸」とあってその下が通信欄になっている。「オテガミ アリガトウ /オテガミ モ ジョウズ ニ カ/ケタガ オヤサイ ノ ヱ ト/オニンギョウ ハ トテモ/ヨク デキ マシタ ネ/オトウサン モ カンシン/シマシタ.映子モゲン/キ デ イイガ オトウ/サンモ ゲンキ ダカラ/シンパイ ハ イリマセン/コチラ モ スコシ ハ スズ/シク ナリマシタ サヨナラ.」日付はない。インクはブルーブラック。通信欄の下にはごく小さく橙色で「行印所刷印版色原村光社會式株」とある。
 赤い風車が並ぶ店先の写真に俳句2句。これは【1】に同じ形式である。【1】には「自作」の句を添えていなかったが、これには「背の子に見せつヽ帰る風車 白葉」の句が書き込まれている。白葉は𠮷田清の俳号で、𠮷田清の句は【2】に9句書かれていたが、この白葉の号で投稿された句も見付けることが出来た。この辺りのことはなお調査を進めてから報告することとしたい。
 さて、この葉書には日付がないが【1】が「東京市」だったのが「東京都」に代わっているところからし昭和18年(1943)7月以降、秋に入った頃らしいのは「こちらも少しは涼しくなりました」との文面から察せられる。【1】は昭和18年6月以前と云うことになる。
 履歴書を参照するに、昭和18年1月30日に「第11軍参謀」に補せられ、2月7日から9月29日まで「第11軍司令部に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す」とあり9月30日「赴任のため漢口出発」とある。そうすると昭和18年の秋に漢口から出したことになりそうだ。「呂」は第11軍の通称号だった。
・ヨシダアキコ宛昭和18年一月一日付絵葉書【7】


 宛名は「東京市目黒区/駒場町八〇一/𠮷田 清方/ヨシダアキコ様」で差出人は「中支派遣/藤㐧六八六一部隊/𠮷田 清」で「一月一日」と添える。差出人に重ねて赤文方印「濟閲檢|藤第六八六一部隊|陸軍大尉/富田一夫」その上に「富田」の朱文円印。
 橙色の横線に「部 理 經 京 東 軍 陸 時 臨」とあってその下が通信欄になっている。「オショウガツ ガ キマシタ/ネ.アキコハコンドハ七ツ/デスネ 一ツオホキクナ/ツタノデス カラ イママ/デヨリモ モツトオリコウ/ニ ナラナクテハ イケマセン/ネ.マコトチャン ト ナカヨク/シナサイ.テルコチャン モ/カハイイ デセウ.オトウ/サン モ ゲンキ デス.センチ/デモ オモチ ヲツクッテ/タベマシタ.  サヨナラ」インクはブルーブラック、通信欄の下にはごく小さく橙色で「行印所刷印版色原村光社會式株」とある。
 伯母が数えで「七ツ」と云うのだから昭和18年(1943)1月1日である。「藤」は第39師団の通称号で、履歴書には上記「第11軍」関係の経歴の前に、昭和17年(1942)1月19日に「第39師団参謀」に補せられ、1月28日に「赴任のため東京出発(飛行機)上海着」そして2月7日「湖北省荊門県荊門着」。1月20日から昭和18年2月6日に「第39師団司令部に在りて大東亜戦役支那方面勤務に従事す」、2月7日に「赴任のため当陽出発 第11軍司令部着」とある。
 やはり細かく文面を点検して、調べてみないと分からない。更に、筋の良い資料に当たらないと、調べを正確かつ迅速に進めることは出来ない。と、つくづくと思ったことだった。(以下続稿)