瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(13)

松谷みよ子全エッセイ1『わたしの暦』
 さて、返却期限が迫って来たので6月4日付(10)に書影を示した『松谷みよ子全エッセイ』を見直しておりましたら、それと明記していないのですが紀州採訪のことと思われる記述のあることに気付きました。
 111~117頁「なにをあえて冒して求める」は、末尾(117頁4行め)には(一九七一・九「小四教育技術」)と初出が示してあります。この文章は松谷みよ子の本 第10巻 エッセイ・全1冊にも掲載(163頁10行め~168頁9行め)されているのですが、728~742頁「初出と底本」には、732頁8行め「【初出】「小四教育技術」 一九七一年九月号(九月一日)小学館」とあって『松谷みよ子全エッセイ』の表示は流石に簡略に過ぎましょう。
 雑誌「小四教育技術」は昭和23年(1948)10月創刊、2019年3月号を最後に「小三教育技術」と統合されて「教育技術小三小四」となり、2022年2/3月号(2022年1月15日発売)を以て紙媒体での発行を停止、姉妹誌「教育技術小一小二」「教育技術小五小六」と併せてウェブサイト「みんなの教育技術」に移行しております。国立国会図書館デジタルコレクションは国立国会図書館限定公開なので閲覧は出来ませんが、細目は分かります。
 前後の号も見るに170頁が「編集後記」なので各号の総頁数は170頁、そして12~16頁に「この道を求めて」と云う、各界の著名人のエッセイを載せております。これは昭和46年度の連載企画であったようです。
 それでは当該箇所を抜いて置きましょう。まづ『松谷みよ子全エッセイ1』114頁16行め~115頁7行め、『松谷みよ子の本10』166頁13行め~167頁2行め、前者の改行位置を「/」後者のそれを「|」で示しました。

 食うや食わずの中から民話の採集にでかけた。日本をこの手でさわりたい、というのがなに/よりも私を|旅へ向かわせた。といっても何をどう採集するのか、山で木を伐*1っている小父さん/【114】がいればそこにすわり|こみ、見ず知らずの人の家でもあがりこんで聞き書きを重ねた。そのた/め、採集した話は本格的昔話とい|うより、伝説に近い話が多かった。それがよかったと思う。/なぜなら、その土地その土地の喜びや悲しみ|にふれることができたから。私は採集していくな/かで、私たちの踏みしめている土地に祖先の汗と血がに|じんでいることを知った。御先祖サマ/というものが、仏壇の奥にいるものでなく、馬に乗った侍でもな|【166】く、その辺の田畑で働いてい/るおじいさんやおばあさん、そのまたおじいさんやおばあさんであること|を、実感を持って受/けとめることができたように思う。


 ここは紀州に限らずその前の信州のことも含めて書いているのでしょうけれども「山で木を伐っている小父さん」の件は、5月9日付(05)に見た『民話の世界』の「和歌山」の「木こりのおじいさん」のことらしく思われるのです。
 次いで『松谷みよ子全エッセイ1』115頁17行め~116頁7行め、『松谷みよ子の本10』167頁11~17行め、

 民話の採集に行って山を一人で歩いていると、誰しも身軽な独身だと思う。泊まって行きな/【115】さいといっ|てくれる。七か月の赤ん坊を置いて来たというと、呆*2れられ、すぐ帰りなさいとい/われた。仕事をして行|くということは、ある時は赤ん坊を置いて出ることであり、他の家に預/ければ預けたで、その家庭に大き|な迷惑をかけることでもあった。自分にとってのっぴきなら/ないことであっても、他人にとってはそれは|何であろう。私は仕事をしたいのですといって通/用するものでもない。だから仕事をする女の人には結婚|しない人も多いし、子どもを持たない/という人もいる。でも私は欲ばりなので、なんでもしてみたかっ|た。その中での可能性をため/してみたかった。


 松谷氏の長女は5月22日付(07)の最後に引用した、伊藤英治 編『松谷みよ子の本 別巻 松谷みよ子研究資料松谷みよ子松谷みよ子年譜」にあったように昭和33年(1958)7月9日に誕生しておりますので、昭和34年(1959)2月と云うことになります。
 なお『松谷みよ子全エッセイ1』の131~136頁に収録される「私の育児日誌より」は、末尾(136頁15行め)に「(一九五八・一一「母のひろば」)」とあるのですけれども、131頁2~9行め「七月九日」条、長女の誕生に始まって136頁13~14行め「一年十二か月」条に終わるので、昭和35年(1960)秋以降の発表でないとおかしいのですが、どうも『松谷みよ子全エッセイ』の典拠の示し方はそっけなくて、もう少しどうにかならなかったのか、と思わざるを得ません。まぁそこを『松谷みよ子の本』別巻の「松谷みよ子全著作目録」で確かめれば良いのですけれども。――すると、332頁上段13~14行め「随筆「私の育児日誌より」=「母のひろば」第三号 一九六三年/ 十一月十日 童心社」とありました。西暦に換算するときにでも間違えたのでしょう。それも編集時ではなく、松谷氏の引き出しに収納した段階から間違っていたのかも知れません。いづれにせよ、何処かの段階で気付くべき初歩的な誤りと云わざるを得ません。
 それはともかく、この「七か月の赤ん坊」を手懸りにこの「私の育児日誌より」を見ると、132頁17行め~133頁5行め、

七か月目 母親高熱で乳が止まり自然離乳、とたんにミルクごくごくのむ。オルゴールききな/【132】 がら、ひとりで眠る。一日五時間位時間がとれるようになった。ひるまは広告の紙を破いた/ り。ひもをひっぱったり、人形でひとり遊び、二月五日初めてねがえり。
八か月目 歩行器にはいる。父親と母親民話の採集に。その間兄の家にあずける。つづいて母/ 親秋田へ、父親留守番で、朝五時に起きて世話をする。NHKへもつれていくのでディレク/ ターたち、「おい拓さん何をくわしているんだ」と心配したそうな。

とあって、採訪の記述はこれだけです。とにかく2月中旬以降が「八か月目」になる、生後「七か月の赤ん坊」ですから計算は合っています。
 そうすると、瀬川拓男と松谷氏が和歌山に通い始めたのは昭和34年(1959)2月から、と云うことで間違いなさそうです。そして秋に松谷氏は、5月6日付(03)及び5月7日付(04)に見た、田代を訪ねておりますので、何度か現地入りしていることになります。

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 さて、今回『松谷みよ子全エッセイ』に眼を通したことで、松谷氏の人生について全くと云って良いくらい無知だったことにつくづく気付かされました。松谷氏の民話関係の著述にはそれなりに眼を通していましたが、それは話の方に関心があったからで、今頃になって初めて、その背景を為す松谷氏の側の事情を知ったような按配です。(以下続稿)

*1:松谷みよ子の本』ルビ「き」。

*2:松谷みよ子の本』ルビ「あき」。