瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

年齢と数字

 断るまでもない、と思いながら敢えて念を押して置くが、戦前まで年齢は数えで勘定するのが普通だった。誕生日で加齢するのではなく、全ての人が正月に年を取るのである。だから、その年はずっと同じ年齢である。誕生日が分からないと年齢の勘定も出来ない満年齢よりも余程簡単である。明治生れの人の伝記や年譜で、本人が殆ど使用しなかった満年齢で作製したものには、計算ミスによる混乱が少なからず指摘される。本人が使っていないのだから数えにしておけば良いのだ。
 それからもう一点、太陰暦の一年と太陽暦のそれとでは、旧正月が約1ヶ月ずれていることでも見当が付くように、期間が一致していない。かつ、月齢に従って1ヶ月の長さを決める太陰暦では、1ヶ月は29日(小の月)か30日(大の月)で、月の日数も太陽暦のように一月が必ず(31日)長く二月が極端に短い(28日)、などと固定されていない。だから「大小絵暦」のようなものが必要とされた訳だが、月の満ち欠けにより1ヶ月の長さを決めると12ヶ月が354日になってしまう。地球が太陽の周囲を一周する期間を1年として365日(366日)の太陽暦とは大きくずれる。そこで2〜3年に一度閏月を置いて、13ヶ月384日にして調節していた。従って例えば、文久二年を1862年としてしまうのは、厳密に言うと正確でない。文久二年の年末に生れた人は、1863年生れである可能性が高い。文久二年十二月二十六日生れの岡倉天心がそうだ(1863年2月14日)。もう少し古いところでは、依田学海なんかも天保四年(1833)生れだけれども、誕生日が十一月二十四日なので正確には1834年(1月3日)生れになる。
 学者の中にはこの西暦への換算を厳密にすべきだと主張する人がいる。しかし、この考えには賛同できない。ズレがあるものだと承知して、その上で文久二年は仮に1862年ということにでもしておかないと、正確な日付の記録がない限り、それこそ右往左往しかねない。そして、文久二年十二月=1863年1月か2月、という換算も、わざわざすることもないと思う。月が分からなければ文久二年=1862年として処理しているのである。
 ついでに、数字の使い分けについて。引用は原文のママとしたが、私が計算して算出した数字は算用数字で示した。太陰暦時代は「明治五年(1872)十一月二十九日」そして改暦後は「明治6年(1873)1月1日」とした。和本の丁数なども、丁付がある場合、丁付のまま「廿二丁」などとして示す。和本の丁付には誤魔化シが少なくないので実数を示す必要があるが、これは原本にある数字ではなく私に勘定して出した数値だから「17丁」のように算用数字にしてある。従って、算用数字を使っていない時期の事柄で、当ブログが算用数字で示しているものは原文にはなく私が勝手に数えて出した数値である。逆に、近年のもので漢数字を使って示したのは原文を襲ったものということになる。そこらへんは臨機応変にやっていく。

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 コメント欄のことを昨日書きましたが、私は相当気分屋で、コメ返しをマメに出来そうもありません。それこそ、命を削るようにしてコメントのやりとりをされているのを見ると、感心するというより「自分には無理だ」と思ってしまうのです。記事のアップもここしばらくはマメにやろうと考えていますが、生活面で目一杯になったらしばらく放置するかも知れません。そんな訳で議論の場として活かせそうもないことを初めに断った次第です。それから気分屋ということの関連では、文体についても、文を勢いで書いてしまうタイプなので、そのときの気分によって敬体になったり常体になったり、混ざったりします。本来なら統一すべきなのでしょうが、これがなかなか、上手く行かないのです。文そのものは書き溜めたものを使いますので、当ブログは毎日文体がまちまちということにもなるでしょう。その上、なかなか切れない文を書いたり、ややこしい言い回しをしたりしますが、この年になって今更矯正しても仕方がない、と諦めて開き直ったからこそ、ブログ開設に踏み出した訳ですし……。