瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(02)

 さて、「蓮華温泉の怪話」と「木曾の旅人」の関係について、話を進めるべきなのだが、ここで「木曾の旅人」を知ったそもそものきっかけについて、述べて置こうと思う。

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 中学高校の頃、私は父の書棚を漁るようになっていた。本業に関係する本が圧倒的に多かったが、他に硬軟様々な本があった。その中に、阿刀田高の短編集『冷蔵庫より愛を込めて』と『ナポレオン狂』があった。星新一を読んでいた頃だったから正直阿刀田氏の書き方にはあまり馴染めなかったが、そんな中で『冷蔵庫より愛を込めて』(昭和53年6月12日第1刷/昭和56年5月22日第7刷、定価880円・講談社・250頁)の末尾(241〜250頁)に収められた「恐怖の研究」は、怪談好きの私には心惹かれる内容だった。オチには興醒めしたが、同書所収の諸編の中でも最も面白く、印象に残った。――恐怖小説の傑作集の担当編集者が、作品選定について相談すべく、都内の一等地の親譲りの屋敷に妻を失って年老いた女中と暮らす大学の先輩を訪ねる。母校の語学講師を週1、2回勤める程度で、37歳にして読書三昧の気ままな生活をしている学者は、既に作品の選定を終えていて、短編集を1冊ずつ取り出して、作者とお薦めの作品の解説をしてみせる。その中に、「木曾の旅人」が入っていた。
 それが、編集者の依頼を受けて改めて読み直したのでなく、記憶に頼っての選定ということになっているのだ。だから、実際のところ、列挙されている作品の忠実な紹介ではないらしい。その、独自のまとめっぷりが、阿刀田氏の腕の見せ所になっているように思われる。
 と、こんなことを書いていて、私が実際に検証したのは「木曾の旅人」だけなのだが、興味のある方には是非「阿刀田高「恐怖の研究」の研究」に挑戦していただきたいと思う。

「ほかに、どんな作品がございますか」
「そう。岡本綺堂の作品に “木曽の旅人” という怪談があるんです」
岡本綺堂って…… “修善寺物語” の……」
「そうです。大分昔に読んだものなので、こまかいところは少し違うかもしれませんが、木曽の山小屋にきこりの親子が住んでいるんですね。犬を一匹飼っていて……。ある大雪の夜、山越えの旅行者が道に迷って訪ねて来るんです。どこといって特徴のない普通の旅行者で、身なりもキチンとしているし、世間話のあとで持参の海苔巻べんとうなんかをきこりの親子に勧めたりするんです」
「はあ……」
「ごく平凡な山小屋の風景なんですが、きこりの子どもは、その旅人を見たときから怖がって父親の背中に震えてしがみつくし、犬は犬で、歯をむき出して狂ったように吠えたてます」
「はい……」
「旅行者は間もなく山小屋を出て行くんですが、そのあとで村の巡査がやって来て、麓の温泉場で女がズタズタに斬り殺されて、犯人が山の中に逃げ込んだと言うんです」
「なるほど」
「その時になって初めてきこりは、子どもと犬が、旅人の背中にしがみつく女の凄まじい形相を “見た” と想像するわけなんですが、その旅行者がなにげない普通の人間に描かれているだけに、かえってそのイメージが恐ろしい」
「これも想像力の問題ですね」
「ええ。人間はだれしも背後に重い罪を背負って生きているわけでしょう。その罪のイメージが、背中におぞましい姿でこびりついていて、それがいたいけな子どもの目にだけ見えるというのは、いかにもありそうな話ですから……」
「本当に」
「あなたの背後にももしかしたら……」
「なにか見えますか」
「ウフフフ……」(246〜247頁)


 初期に「怪談のコワーイ話し方」を紹介した『子供をこわがらせる 3分間怪談(ワニの豆本)』(昭和50年7月5日初版発行・KKベストセラーズ・247頁)を発表している阿刀田氏は、巧みな話術で原作の持つある種のまだるっこさを削ぎ落とし、殆どリライトといってもいい「木曾の旅人」に仕立てている。要するに、阿刀田氏は綺堂「木曾の旅人」を、それ以前の口承レベルにまで戻して(知っていたのかどうかはともかく)再話しているのだ。
 そして、どうも、この阿刀田版の影響というものは、かなり大きいらしい。そのことは後述するが、差し当たり、蜂巣氏が紹介する「木曾の旅人」への影響を認めたい誘惑に駆られている。
 何を見たか暈かしている綺堂に対し、「旅人の背中にしがみつく女の凄まじい形相」と指定している辺り……。ただ、昭和38年(1963)生れの蜂巣氏の「子どものころ」に「木曾の旅人」が「有名な怪談」として児童書にも紹介されていたとすれば、阿刀田氏の「恐怖の研究」は『冷蔵庫より愛をこめて』巻末の「初出誌」に「恐怖の研究 小説CLUB 昭和50年5月号増刊」とあるので、時期的に苦しい。そして昭和期の児童書の怪談については、あまり調査研究がなされていないらしく、今のところ俄勉強の身にはこれ以上の見当は付けられそうもない。(以下続稿)