この本のことはこれまで殆ど注意されていないらしい。在籍していた早稲田にも所蔵されていないし、CiNiiでもNACSISでもヒットしない。私は国会図書館の近代デジタルライブラリー(館内限定公開)で通覧して、その概要をあらあら筆写した。しかしながら、当時の演劇界の動向に詳しい訳でもなく、彼らの学生演劇活動がどのような位置にあるのかも、よく分からない。いずれ然るべき人が(白川氏を主題に据えないまでも)しっかりとした査定を行うべきであろう。ただ、こんな本があるのだ、ということを、せっかくだから紹介したくなったのである。
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表紙は表裏に同じ、鉢植えの描かれた装画があります。色はもちろん分かりませんし、背表紙がどうなっているのかは分かりません。扉には中央に「白川喜代次遺作集」と墨書の題字があり、その左に宋朝体の活字で「(泰徳院英嚴自性居士)」とあります。
続いて口絵があります。図版の説明は保護用の硫酸紙に印刷されています。口絵1葉目は「月三年二十和昭/影近者著」で、丸坊主・丸眼鏡・詰襟学生服の顔写真で学生証に捺されるエンボスの校章らしきものが下部に認められるので、学生証の写真の複写ではないかと思われます。裏には印刷されていません(以下同じ)。2葉目は右上が「月三年九和昭」左下が「年八和昭」で、前者は丸坊主・丸眼鏡にスーツ・ネクタイ姿の顔写真、後者は同世代の男性2人が立って並び、左が白川氏で柔道着姿(黒帯)、右は同じ背格好の、眼鏡・やや長髪・ネクタイの人物(細部よく分からぬ)です。3葉目は、現代劇の舞台写真で10人が写っています。説明は左側に縦書きで「九段座公演舞臺/(右から二人目)」とあります。4葉目はやはり現代劇の舞台写真で男性ばかり7人、説明は左側に縦書きで「演伎座公演舞臺/昭和十二年十月/(右から二人目)」とあります。この2つの舞台写真は横向きに、ノド(綴じ目)を上にして印刷されています(もちろん説明も)。次の5葉目、硫酸紙がないのか、それとも文字がないので飛ばしたのか分かりませんが、踏み石が道の中央に連なる二階家の並ぶ路地に花輪が並び、幼女4人を中心にして、90人ばかりが路地の奥にかけてぎっしり写った、葬儀の写真です。
次に兄の一郎による、「二月二十日」付「鎌倉の海邊にて」の「序文」があります。これは短く(1頁分)あまり上手くもない文章ですが、心のこもった書きぶりです。引用は省略しますが、「藝術的に完成した作品では無」いが「何か殘してやりたく、作品の形をした物を集めて……親しい友人に御願し編輯して戴き、装幀は僕の友人に」依頼したこと等が記されています。
その裏の見開きが目次になっています。目次までが前付で、頁付はありません。(以下続稿)