瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山田野理夫編『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(4)

 さて、昭和49年(1974)版4頁に見える連名のうち、昭和52年(1977)版・昭和63年(1988)版にも引き継がれているのは装幀と無関係の「散 文 詩 山田野理夫/写真撮影 宝文館出版」のみなのだが、これも中公文庫版には取られていない。
 これはどういうものかというと、本文中に10頁ごとに挿入され、奇数頁に遠野の写真が、その裏の偶数頁に、表の写真の解説に当たる山田氏の散文詩が記されている。この2頁組には頁付はない。散文詩は中央部に横書き、1行18字で3〜8行。これは山田氏一行の遠野紀行というべきもので、挿入位置と写真の内容の関連がないのはもちろんのこと(ありそうな箇所もある)、そもそも本文の内容とも殆ど関連していない。従って、これを削除した中公文庫の処置は妥当であるが、それはそれとして、観光地化しきる以前の、前近代の名残を止めた情景を伝えるものとして捨て難い味がある。以下、その位置を列挙してみよう。奇数頁の頁数のみを挙げ、写真の向きを、縦のもののみ注記した。なお、横の写真はノドが上になっている。そして偶数頁の散文詩によって知られる写真の内容について注記し、必要に応じて【 】内に図柄について私の説明を加えた。また散文詩に山田氏が引用している書名(人名)を、山田氏の表記(大部分は( )で括った形)通りに、【 】の後に附加して置いた。
・7頁 遠野駅【プラットフォーム】(「遠野物語」)
・17頁 遠野駅【玄関の看板】(桑原武夫
・27頁 遠野物語の序文【遠野物語碑と標柱】
・37頁縦 【「←|釜石KAMAISHI|42Km/33Km|大迫OHASAMA*1|→」の標識のある十字路】(「遠野物語」)
・47頁 一日市(ひとひいち)【「国鉄バス/一日市」バス停】
・57頁縦 城跡への道で稲荷社【「正一位下屋稲荷神社」の石柱】(「遠野物語」)
・67頁 遠野小学校【校庭の土俵】(「本書」)
・77頁 早池峯山、六角牛(ろっこうし)、山ノ神、塞ノ神などの名を刻んだ石塔【石塔と「早池峰への古道」標柱】(「遠野物語」)
・91頁 常堅寺の仁王像【仁王門全景】
・97頁 カッパ淵【「カッパ渕」標柱】(「遠野物語」)
・107頁縦 常堅寺境内のカッパ狛犬【吽形】
・117頁縦 土淵村大杉の沢里カネさん【手押し車(一輪車)を押す老農婦】
・127頁 土淵村山口部落【「山口部落案内図」観光客向けの略図看板】(「掲示板より」)
・137頁 山口、北川清の家・清の娘・深雪婆さん【庭から家屋を望む、縁側に老婆腰掛ける】
・147頁縦 北川家のオシラサマ【仏壇とオシラサマが並ぶ】(「遠野物語」)
・157頁 オシラサマの続き【オシラサマのアップ】
・167頁縦 北川家の座敷【床の間】
・177頁縦 イズコまたはイジコ【板の間、側面写真】遠野のワラベ唄
・187頁縦 【機】(「本書」)
・199頁 タバコの葉【棹に吊って乾燥中】
・209頁縦 遠野のススキ【稲田の向こうに農家・山】
・219頁 佐々木喜善の家【家屋全景】
・229頁縦 佐々木喜善の墓【「佐々木喜善之墓」墓石】
・239頁 ダンノハナから山口部落を眺望
・245頁 愛宕下にある卯子酉(うねとり)さん【丸木の鳥居、奥に石碑】(「遠野物語」)
・253頁縦 天明2年、大慈寺の義山和尚が……、自然石に500体の羅漢を刻んだ。【自然石に線刻の羅漢1基】
・255頁 五百羅漢の石【羅漢3基以上】
・263頁 遠野との別れ【実った稲田】(「遠野物語」)
 穂の垂れる稲田や薄の写真があるから季節は秋、初めの方の写真には影がはっきり写っていないものが多く、配列通り撮影されたとすれば、初日(?)は曇天だったらしい。37頁の写真など、すぐ背後に迫っている山の半ばが、雲に覆われている。
 しかし、別の日(翌日?)は晴れたらしく、97頁のカッパ渕の写真に写る小屋(神社?)には屋根の影がはっきり写っているし、117頁、日に照らされてモノクロでは白く見える土道をこちらに向かって来る、手押し車を押す老婆の影も昼らしく短く、明瞭である。137・199頁にも影ははっきり写っている。
 それはともかく、以前の私はこういうものに、編者の勝手な感傷の押付けを感じて辟易したものだが、最近はあまり気にならなくなってきた。(以下続稿)

*1:上に漢字、下にアルファベット、Oには長音記号あり。